2012年12月29日土曜日

宮田村の双体道祖神(長野県上伊那郡) ①

宮田村立宮田小学校入口左側に観音堂というお堂があります。中を覗くとたくさんの観音様が安置されていました。その観音堂と通学路の間の石垣の上に、あちらこちらから集められたと思しい石碑石仏群がありますが、その中の一体がこの双体道祖神です。
ほのぼのパークという公園の入り口にあった男女の子供の像です。平成10年の作。
大田切という集落の集会所の近くにあった双体道祖神。風化のため容姿ははっきりとはしませんが、台座の石の大きさに圧倒されました。
  道祖神の裏のお宅の御老人が、秋の日差しを受けながら「お葉」を洗っていました。
旧道をさらに奥に進んでいった右手藪の前に元文5年(1740)の双体道祖神。台座に天狗の団扇みたいなものが浮き彫りされています。

2012年12月13日木曜日

蚕神様 ③(長野県上伊那郡宮田村伊那峡)

南信州を北から南へと流れる天竜川。その天竜川の大久保ダムの傍ら、小高い崖の上に「駒ケ嶽蚕神神社」があります。所在地宮田村教育委員会の発行になる『宮田村の石造文化財』によると、この蚕玉神社の本山(?)は西駒ケ岳(木曽駒ケ岳)中岳の駒ケ岳神社で、もとは檍原(もちのきはら)というところにあった、といわれていた、とあります。
  なるほど、建物自体はまだ新しいものであるようす。傍らに「蚕玉神」の文字が刻まれた石碑があります。
建物の中を覗くと、正面向かって左側に白馬に乗る女神の像。「蚕玉神」です。こちらの像、もとは同じ宮田村の天竜川の支流「大田切川」の上流、丸山という所に祀られていたものが第二次世界大戦後、現在地にうつされた、とのことです。
  4月29日が祭礼とのことですので、およそ半年以上の埃がついたガラス越しに写しました。手前に、多分祭礼の時の道具でしょうか、ブルーシートが被せてあり、こちらも埃が積もっておりました。
  ガラス越しで斜め上からではありますが、魅力のある木像でした。来春の楽しみができました。

2012年11月18日日曜日

辰野町の双体道祖神(14) (上辰野)

上辰野堀上竹原の双体道祖神。 上部に日・月の彫刻。明治6年(1873)のもの。
堀上荒井の双体道祖神。 明治6年(1873)のもの。
堀上中邑の双体道祖神。竹原や荒井と同じく上部に日・月が彫刻され、明治6年(1873)のもの。
羽場崎の双体道祖神。上の三体とは異なり日・月の飾りはない。顔も若干童顔である。
堂村の双体道祖神。上部に線彫りの日・月の装飾がある。明治5年(1872)のもの。
甘露井の双体道祖神。男神・女神とも持物が他の道祖神とは違う。明治13年(1880)のもの。男神は木の枝のようなものを手に持ち、女神は房ような物が付いたものを持っている。

2012年11月14日水曜日

辰野町の双体道祖神(13) (宮所~小横川)

国道153号線、「小横川橋」の南側、側溝を挟んで田圃側に建っていました。 上に日・月。男神が女神の肩を抱く祝言の形。明治20年(1887)だそうです。にこにこして、いまにも踊りだしそうです。
小横川下村の双体道祖神。残念ながら、いつも日を背に受ける向きで建てられていました。
小横川中村の双体道祖神。上部に日・月。
小横川上村の双体道祖神。こちらは肩組み握手の形。

2012年11月10日土曜日

辰野町の双体道祖神(12) (川島②横川川に沿って)

門前北村という集落の川に架かる橋の西、石垣の上にあった双体道祖神です。明治22年(1889)のもの。
門前北村の「西組」という銘のある双体道祖神。上部に日・月の文様があります。
これも門前にあった双体道祖神。寛政3年(1791)のもの。
門前の上流、川上という集落の「木曽沢」というバス停の横にある元禄3年(1690)の双体道祖神。
上の双体道祖神の後に、隠すかのように置いてあった双体道祖神。男神が盃を、女神が酒器様のものを持っているのがわかります。
   その川上のはずれ伊良沢公民館の裏に置いてある双体道祖神。
横川川の最奥、源上という集落の旧道脇にあった、祠の中に納まる双体道祖神です。
同じ源上の道祖神場の隅にあった男女が合掌している形の像。是も双体道祖神だと思いたいのですが……

2012年11月1日木曜日

辰野町の双体道祖神 (11) 川島①

辰野町上島、根橋という集落の北外れ、軽自動車が通れるか位の道の際に ひっそり立っていました。宝暦7年(1757)銘。
上の道祖神から少し南に下ったところ、下村という所の三叉路の脇にありました。
   渡戸下組の集落内の狭い道路脇。肩を組み酒器と盃を持つ祝言の形。明治12年(1879)とのこと。
   こちらは、同じ渡戸の上組の道路わきにある延亨4年(1747)のもの。互いに腰を抱きかかえ手を重ねる姿。お顔もなんとなくこの辺りの人の顔に似ています。
一之瀬の明治21年(1888)銘の双体道祖神。上部に日月、手にそれぞれ盃と酒器を持っています。

2012年10月23日火曜日

辰野町の双体道祖神 (10) (辰野町小野)

『枕草子』に「里は…」で始まる段がある。
  里は、逢坂の里 ながめの里 睡覚の里 人妻の里 憑めの里 夕陽の里 妻取の里。云々…(以下略)
その「たのめの里( 憑めの里)に擬せられているのが、上伊那郡辰野町と塩尻市とにまたがる「小野の里」。
  JR中央線「小野駅」から歩いてしばし、三ツ辻の傍らトタン壁を背にして古そうな双体道祖神があります。三ツ辻の真ん中には大きな石の地蔵様を安置したお堂がありました。
  これより、木曽に向かう道に入ります。
「藤澤」という集落 の道祖神場で見受けた、祠型の道祖神。窓から外をうかがうような姿が愛らしいですね。
  ここから、飯沼の中村という所に出ます。
中村の公民館の三叉路を木曾方面に入り少し行くと、道脇に馬頭観音の文字碑と並び立っています。
  上部に注連飾りと思われる装飾。文政7年(1824)の建立。
  
中村の道祖神からさらに木曽に向かう道を行きます。案内板には「古中仙道」とありました。辰野の最後の集落「山口」の木曽寄りのはずれで仲良く寄り添う双体道祖神です。
  

2012年10月14日日曜日

蚕神様 ②(辰野町川上・宮木)

  長野県上伊那郡辰野町川島の川上という集落に、写真のような蚕神様の騎馬像がある。この像については、上伊那郷土研究会という会が出版している 『伊那路』という雑誌の平成18年5月号に、赤羽篤さんの論文があり詳しいが、像に昭和11年の銘があるという。像の周囲が植え込みで覆われていたので確認できなかった。

こちらは、川上よりも辰野の中心部に近い宮木という所。JR飯田線の宮木駅の近く、国道153号線沿いにある宮木諏訪神社境内の蚕神様。蛾と繭と桑の枝葉が大きく図案化されて彫られている。
  

2012年10月10日水曜日

辰野町の双体道祖神(9)

国道153号線宮木信号の脇、『上伊那郡誌』によれば「宮木青年会館」とあります。
  上部に日・月が刻まれ、女神が酒器、男神が盃を持つ祝言の形の双体道祖神です。
こちらは、その近く諏訪神社の参道入り口にあった双体道祖神。男神の持ち物は判然としませんが、女神は鈴のようなものを持っています。上部に日・月、向かって左横に「国土安寧」の文字が刻まれています。
  いずれも明治の頃の建立でしょうか。

2012年8月28日火曜日

駒ヶ根市の双体道祖神 ① (東伊那)

伊那谷を北から南に流れる天竜川。駒ヶ根市の天竜川をはさんで左に位置するのが旧東伊那村と旧中沢村です。何れも古くは、高遠の支配下に組み込まれていた地域です。
  その東伊那の「栗林」という集落にあった双体道祖神です。こちら、男女の神が酒器を持った祝言の形。









  上の像の隣にあったのがこの写真の像です。こちらは風化が激しく、わずかにそれと思しき形が浮かび上がっているだけです。











   その近くの集落、「下塩田」という所。水路の脇にあったのがこちらの像。












  さらに、旧中沢村の近く、「伊那森神社」という神社の境内に建てられた道祖神です。こちらも酒気を持つ祝言の形。



   







  最後に、『駒ヶ根市の石造文化財』の記述に従えば、こちらは単体の 道祖神、とのこと。明和乙酉(1765)云々の銘を持つこの像の隣に、やはり同年の銘を持つ地蔵様がならんでいました。
  

2012年8月21日火曜日

火山峠の「芭蕉の松」

伊那市と駒ヶ根市との境、高遠街道に「火山峠」という名の峠があります。ここには、かって数十年前(?)にゲテモノ料理の店があり、当時はその道の食通には結構有名な所でもありました。
  その、かって店があったすぐ脇に件の赤松があります。 松の根元に
      松茸や知らぬ木の葉のへばりつく
という芭蕉の句碑があることから、「芭蕉の松」と呼ばれています。
句碑は、放浪の俳人 井月の門人たちが建立した明治初めのころのもの。 しっかりした文字で句が刻まれています。
その傍らに井月の句碑が並んで建てられていました。

  「火山峠」・・・・・「かざんとうげ」ではなくて、「ひやまとうげ」と読みます。

2012年8月9日木曜日

箕輪町の双体道祖神(4)

国道153号線「沢上」信号機を153号バイパス通り方面に進むとすぐ左手に写真の双体道祖神があります。
  裏に回ると「昭和55年」の銘。1980年ですから役40年前ということになります。建立有志の名前も刻まれておりました。肩組み握手、頭の上に日・月。放置されていた自転車も写っていますが、この辺りはご愛嬌・・・・・ということでお許しください。勝手に移動するわけにはいきません。

2012年7月31日火曜日

河童の双体道祖神

  駒ヶ根市東伊那に立派な富士塚があるというので、フラフラと見物に行きました。富士塚については、こちらをご覧ください。
      http://www17.plala.or.jp/jincya/fujituka.html

  天気も良いし、時間もあるし、

ということで、車を走らせていると、何やら怪しい卵型の石。やり過ごしてしばらく行ってから、気になってUターン。
  駐車場に車を止めてよくよく見ると、カッパの男女が肩を組み、手を合わせての双体道祖神(?)・・・・・
なんともなまめかしい姿にしばらく見とれてしまいました。暑さも忘れて・・・
裏に回ってみると「平成19年(2007)」個人建立でした。
  そういえば、『伊那の伝説』(岩崎清美 昭和54年)という本の中に「家傳痛風藥」という河童の話が載せられている。それによると、天竜川のこの辺りには昔河童(カワランベ)ががいて、時々通行人を水の中に引っ張り込んで、しんの子をぬいたそうです。
  近くに、「おもしろかっぱ館」や「かっぱふれあいセンター」なる建物もありましたが、これは入らずに帰路につきました。

2012年7月17日火曜日

一水四見(伊那市美篶笠原)

何故か最近、「井月さん」に憑りつかれていて(?)、思い立つと近在にある井月さんの句碑を見に行きます。
  伊那市美篶笠原に「 吉祥寺」というお寺があり句碑がある、というので出かけました。六道堤から高遠方面に道を取り、すぐに寺の入り口を登ることしばし駐車場に車を止め、墓地に続く道を歩きます。すると、『上伊那町村誌』記載の「溜池」がありました。山から出てくる湧水を溜めてある池のようです。『町村誌』記載によれば、一つは143坪、片方は108坪とあり、大きい方の池の傍らに「どうなっても大丈夫」と、無造作に刻まれた石が置いてありました。




  さらに、もう一つ「一水四見」と刻まれた石が小さい方の池に・・・・・
意味が解らないまま写真にしてきました。家に帰り、中村元の『佛教語大辞典』を見ると、次のように解説されていました。

  唯識学で使われた喩え。同じ水を、天人は宝で飾られた池、人間は水、餓鬼は膿血、魚は住処と見るように、同一対象を見る者の心が異なると、おのおのの異なった見解を抱くことをいう。

  また、新しい言葉を覚えました。井月さんのおかげでしょうか・・・・・
「一水四見」 なるほど・・・・・