2013年12月12日木曜日

猫神?(伊那市長谷非持)

国道152号線 通称「秋葉街道」。「非持」の信号を左折して法華道を入るとすぐ右手に、写真のような道祖神場があります。道路の拡幅もあり、若干配置されなおしたのかもしれませんが、「道祖神」の文字碑の後、石燈籠の横に小さな自然石が置かれてありました。
こちらがその自然石。『長谷村の石造文化財』によれば、大きさは45×76×46cm。「道祖神奇石(力石として利用)」とありました。
  初めて見たのは、曇り空のうす暗いとき。猫がうずくまっているようにも見えました。
  山里のこの辺りでも、かつては養蚕が盛んにおこなわれていたと思われますので、猫に関係する石があってもよいのでは、と、思いながら、これから歩いてみることにしましょう・・・・・・

2013年7月23日火曜日

甲子待と大黒様

 干支の始めは「甲子」…きのえね です。人生60年、生まれ年の干支(えと)に再び巡り合えるのは、本当に幸運の極み、その巡りあわせを祈念して石塔(石碑)をみんなで力を合わせてたてようか、ということで建てた……
と、軽く考えていました。実は昭和59年が甲子の年。私たちの町内でも子供たちが石碑に結んだ綱を引き町のはずれに運んで建てた記憶があったからです。
 それにしても庚申碑と同じように、この辺りでは庚申碑がある所に必ずと言ってよいほど甲子碑があります。それも同じ数程。
 というわけで、地元の『伊那谷の石仏』(竹入弘元著)をひろげて見ると、この地域に数例の甲子講が残っていることが記されていました。
 さて、甲子といえば「大黒天」。安曇野の双体道祖神は大黒天とペアで祀られているのが多いのですが、伊那谷伊那の平では、大黒天の文字碑はあっても、像に刻まれたものはあまりありません。
こちら、駒ヶ根市下平 天台宗長春寺というお寺の境内。四角柱の中に彫り込まれた大黒天の像です。文化元年(1804)のもの。右手に打出の小槌を持ち左手で袋を担ぎ俵に乗ったお姿です。
辰野町堀上 JR中央線辰野駅から塩尻駅に向かう線路の近く、丘の上に蚕神やもろもろの石碑石像の中に、かなり目立つ大黒様です。元治元年(1864)の建立。











 大黒様といえば恵比須様。上の大黒天とペアのように、向かって右、少し離れたところに置かれていた「恵比寿様」の像です。明治6年(1873)の建立です。

2013年6月26日水曜日

馬鳴菩薩(駒ケ根市の蚕神様)



  駒ケ根市のさらに高台。光前寺の左手、荒れた山付の広い扇状地が「菅の台」。かつて、平安時代の昔には、「東山道」という官道が通じていたところで、『万葉集』に菅の荒野と呼ばれたところ。「天下の糸平」の村としても有名です。



 その駒ケ根市。かつて「赤須村」と「上穂」村という二村が合併して生まれたのが「赤穂村」。現 琴平町にある「弘法様」というお堂を兼ねた集会所の脇に蚕神様が祀られていました。道が拡幅され移転させられたものだと思いますが・・・・・・








  その赤穂と天竜川を挟んで東向い、中澤の菅沼という集落。福岡社境内の蚕玉社という小祠の中に祀られている蚕神様。天保13年(1842)の建立。一面六臂 舟形光背に装飾の跡がありますが風化のためはっきりとはしません。









  これは中澤の最奥、大曾倉という集落の「諏訪社」という神社の前に置かれた蚕神様。
  今 駒ケ根市に含まれていますが、中澤というところは幕藩時代には「高遠藩」の支配下にあったところ。鄙にはあれど隠れキリシタンの遺跡のあるところ。
  高遠藩は、財政窮乏を救うため養蚕を奨励した、とか。
 
  四角く掘った窓の中にさらに繭の形を刳り抜き、その中に女神の蚕玉様を掘り抜く。手の込んだ細工です。明治13年(1880)のものです。



2013年5月31日金曜日

駒ケ根市の双体道祖神 ②(竜西 赤穂地区)

駒ヶ根市北割北柏木 柏木橋の脇 庚申の文字碑や青面金剛像などと、西駒(木曽駒ケ岳)をバックに建っています。天明8年(1788)の像。 
中割南方 浅間の辻という所。ちょうど信号機の柱と並んで西向きに建っていましたので、残念なことに逆光になってしまいました。風化が進んでしまい、手を握っているのは判りますがそれ以上ははっきりしません。
南割 湯原の辻。天明元年(1781)の像。いずれも僧形ですが左の像は頭巾のようなものをかぶっているようにも見えます。   
下平の観音寺という堂の境内で見た道祖神。頭頂部と左部とが損壊し、かなり激しく風化しています。ここには、市指定文化財の十王像があるようですが、堂内に安置されているため、見ることが出来ませんでした。
同じ下平の長春寺という天台宗のお寺の門前にあった像です。こちらは、『駒ヶ根市の石造文化財』にも未収録のものなので、最近の作なのかもしれません。
市場割。大御食神社の近くの辻に建っています。享保15年(1730)の像。手に笏様のものを持っているようにもみえるのですが。赤穂地区では一番古い双体道祖神です。
JR飯田線 小町屋駅の近く。津島様の境内にあった双体道祖神。明和4年(1767)のもの。風化していて持物はよく分かりません。


  ほかに、個人宅の物も数体あるようですが、「路傍にあっての道祖神」ということで、写真にするのは遠慮いたしました。

2013年4月9日火曜日

半跏思惟のお地蔵様 『機(はたご)地蔵』 (伊那市美篶下川手)

伊那市美篶下川手、今は下川手公民館になっている場所に、かつて昭和45年頃まで「永安寺(地元の人は単に「お堂」と呼んでいます)」というお寺があったそうです。今は取りこわされて公民館の敷地内北側に「愛宕山」という名前のお堂が建ててあり、中に本尊と思われる三体の仏像が、それぞれ厨子に入れられて安置されています。
  その堂と公民館の間東奥に、石のお地蔵様が安置されています。
  機地蔵(はたごじぞう)の名前の由来は、かつて、機織りが終わるとその織口を切り取り、お地蔵様の首に掛け、次の機の首尾を祈った、 という所からきているそうです。
  お地蔵さまには珍しい半跏思惟のお姿。左手には宝珠。光背にも宝珠が刻まれています。
  文政12年(1829)3月24日建立。台座を含めての高さ約1m余。台座に一字金輪の種子「ボロン」と「頂禮摩訶薩 自期久遠先 阿僧聞見者 永劫超人天」の讃が刻まれています。

  永安寺(お堂)の写真は『みすず』(美篶村誌編纂委員会 1972年刊)所載の物を転載いたしました。

2013年4月6日土曜日

高遠コヒガンザクラ(2013-04)

天気予報によると、今日は午後から強風を伴う雨…もしかしたら強い雨……
  と いうことなので、午前中早々にちょっと見に行きました「六道の堤」 。数年ぶりです。
  ふと 違和感を感じたのは 何か淋しいのです。よく見ると、桜の邪魔になる、と 思ったのか堤の周りにあった松の木が切り倒されていました。それはそれとして……
  花は綺麗に咲いていました。


  足元を見ると、高さ数センチの小さい紫の花。スミレの花です。
  桜の花も良かったけど、小さな花に何故か心が休まりました。


2013年4月2日火曜日

高遠コヒガンザクラ(2013-03)

昨4月1日19時ころ、高遠城址公園の方角で花火が上がりました。花見の始まりです。
  今朝7時ころの花の様子です。場所は高遠小学校。時間が早いので子供たちの姿は見えません。少々モヤッていますが、霧が出ています。

2013年3月29日金曜日

高遠コヒガンザクラ(2013-02)

おや? あれは・・・?
  行きつけの(?) クリニックに出かける途次、急な下り坂をカーブするとき、ふと目に入った白い花。
  少し下ってから急停止。バックして路肩に停車。傍らのカメラを持って下車。木の下から見上げると、数本ある桜の若木のそこらここらに、十数輪申し訳なさそうに咲いていました。
  今年初めての「タカトオコヒガンザクラ」です。

  お城の桜はまだまだ固い蕾。ここは十分な日差しとアスファルトの照り返しの暖かさで、一足も二足も早く開花しました。

  春が来たのですねエ……。「天下第一の桜」に……。

2013年3月17日日曜日

役行者像(長野県宮田村)


  北割地区の元宮神社、本殿脇の役行者像。この像の前鬼・後鬼の夫婦の鬼の像はそれぞれ別に彫られ行者像の前脇に置かれているが、残念ながら左側の一体は頭部が欠けている。
  宝暦14年(1764)のもの。










  こちら、以前にも紹介したことがある 新田地区行者橋の辻の役行者像。大きな自然石を穿った祠の中に納まっている。石祠は文政13年(1830)とあり、石像台座には寛政8年(1796)とある。夫婦の鬼は、行者像と一体に行者の膝の前に掘られている。









  町二区 津島神社の役行者像。宝暦8年(1758)の像。
 




大田切区 天竜川にそそぐ、かつて激流で有名な「大田切川」。 江戸時代、渡し場であったところに20数基の石像があり、そのなかのいったいです。自然石を刳りぬいた祠の中に納まっています。安永2年(1773)。
中越区南羽場 これはまた大きな自然石。『宮田村の石造文化財』(宮田村教育委員会刊)によれば、高さ4.6m 幅5.1m 奥行3.85m 「南無阿弥陀仏」の名号が彫られ、延亨元年(1744)の銘。
その大石の向かって左側を刳りぬいて、中に役行者像が納められています。
  霊山木曽駒ケ岳の麓宮田村にある、4体の役行者像です。

2013年2月28日木曜日

高遠コヒガンザクラ(2013-01)

  今年も、桜の開花予想が出ました。それによると、高遠のあたりの開花予想は4月12日前後。平年並み……と、いったところ。
  したがって、小さい小さい…固い固い…蕾の中……
  まだまだ 絵にもなりません。
  と、いっても今日の暖かさ。雪がだいぶ解けました。
  少しづつ  少しづつ  春が近づいてきています。

2013年1月23日水曜日

北辰霊符三尊像(霊符尊神(長野県上伊那郡辰野町))



  上伊那郡辰野町上辰野の堀上。山間を縫うように国道153号線とJR中央線西線、そして生活道路が走っていますが、その道路と鉄路を見下ろすような土手の上に、木造りの簡単な鳥居、その奥の小さな祠の左右に石碑が並んでいます。
  左側に大黒様と甲子の文字碑、それに蚕神様。右手には恵比寿様と何やら解らないが三人の神様のような石像。


  
  左側面に「明治七年甲戌七月廿八日」と刻んであります。1874年の造立です。像の周囲には八卦の文様。主神の足の下には亀と蛇が刻まれています。脇に立つ神様(?)も普通に見ることが出来る佛像の持ち物とは違ったものを持っています。
  この像については、竹入弘元氏の『上伊那の石仏』にも記述がありません。不思議な石像です。
  2017年7月、やっと『辰野町の石造文化財』が、辰野町文化財保護審議会の編集によって発行されました。これによると、この像の名前は「北辰霊符三尊像」(霊符尊神)と記されています。とすると、中央が霊符尊神、脇侍は抱卦童子と示卦童郎のお姿が刻まれていることになります。
  なぜこの場所に、このような像があるのかはわかりませんが?

2013年1月3日木曜日

宮田村の双体道祖神 ③

北割 長谷川橋の辻
  残念なことに建っている向きが概ね北向きですので、絶えず逆光になってしまいます。平成12年(2000)頃に現在地に移動された、とのこと。
北割 集落センター東
  享保18年(1733)の双体道祖神。
北割
  平成4年(1992)。まだまだ新人です。
北割 井ノ口の辻 「万歳!」をする道祖神
  面白いことに、男神女神とも両手を上げて「万歳!」をしています。信州人が集うと、最後には必ず万歳三唱で締める、とのこと。昔からそうだったのか……?










北割
  風化が激しく、ところどころコンクリートでの補修の跡があります。

2013年1月1日火曜日

宮田村の双体道祖神 ②

南割 庚申原の辻
  多分近在の庚申塔や石碑が集められたのかもしれません。コンクリートの上に整然と並べられた群の中にありました。男神は旅姿の合羽のようなものを羽織っています。中央に 剣の形の浮彫があり日付が彫ってあります。
新田 上の宮 
  三叉路に数体の馬頭観世音と共にありました。 風花が激しく、一部コンクリートのようなもので補修の跡があります。
南割 
  南割集落センター近くの交差点を南に下った三叉路の藪の中に隠れるようにありました。
新田 
  西部広域農道沿いの行者橋の辻。役行者像などの中に建っています。風化のため明瞭ではありませんが、両神とも合掌しているようです。
南割 
  集落の中の若干狭い道沿い、西向きに立っていました。隣に小さな祠があり、中に観音様と思われる石仏が安置されていました。