2016年12月4日日曜日

六地蔵尊(伊那市長谷溝口)

伊那市長谷溝口の尾田屋という集落の南の辻。十数個の石仏・石碑の中央に置かれているのが、この六地蔵の像です。高さ40cm弱、幅35㎝程の石に六体のお地蔵さまが彫られています。上部に刻まれた「為先亡孩子菩提」の文字。
  「孩子」。中国語では「子供」とか「児童」とかの意(『中日辞典』小学館)。『広漢和』では、「ニ、三歳の小児。ちのみご。みどりご。」とあります。
  戒名では、概ね2・3歳で亡くなった子供につけるようです(Wikipediaによる)。
  道端の小さなちいさな六地蔵です。
  

2016年11月6日日曜日

武雄温泉の淀姫社と石造十王像(佐賀県武雄市)

佐賀県の武雄温泉に湯桶し、翌朝、楼門の辺りをぶらぶらしていると「←淀姫社」案内板が目に入りました。「ン? 淀姫の神社?」
  案内されるままに坂を上り、さらに石段を登って行くと件の石鳥居がありました。
  『大日本神明辞書』に「ヨドヒメノミコト 與杼比賣命一に淀姫に作る豊姫とも申す神功皇后の御妹なり。三韓征伐の際干満両顆を得て異国の兇徒を海中に覆没せしめ給う(以下略)」とあります。豊臣秀頼の母親の淀君ではありませんでした。
  
石鳥居の上奥の石祠が淀姫社で、その右奥にもう一つ祠がありますが、確認しませんでした。近くの案内板によると、武雄温泉(古くは「柄崎温泉」と言ったようです。)に入浴された淀姫が、入浴後に休憩された所だそうです。
石鳥居の横に薬師如来の石仏がありました。前にある狛犬の古さに比べると、如来さんの方に新しさを感じました。近くの案内板によると、元の薬師如来は明治35年11月に鋳造、温泉の守神(鎮守)として安置されたが、昭和17年頃第二次世界大戦の軍用として供出された、とあったので、納得。
石段の下、カーブの手前に小さな石窟があり、六地蔵やらの石造物が雑然と置かれていました。よく見ると下の写真のような二佛の像がありました。他にも唐風の像があり、二佛の像が「司命・司録」像だとすれば、バラバラになってはいるものの、ここに石造の十王像が安置されていたのでは? と思いました。
これは、司命・司録の像?

2016年6月6日月曜日

八乙女 高見ケ丘の富士塚(長野県上伊那郡箕輪町八乙女)

中央高速道路の西側を走る「長野県西部広域農道」の「八乙女」交差点の角に、「高見ケ丘公園」という名前の小さな公園があります。遊具らしきものはほとんどなく、駐車場もありません。中に入ると中ほどに東屋があり、奥を見ると人手で作った盛り土が三つあります。入口の案内板によると「浅間塚」と書いてあるのがこれで、写真中央にあるのが大正9年(1920)に作られたもの、右の奥に見えるのが昭和55年(1980)に作られたもののようです。いづれも「庚申」の年です。とすれば、案内板には記述されてはいませんが、手前左側のは万延元年(1860)の庚申の年かそれ以前の庚申の年に作られたものかもしれません。
  「各戸の縁の下の土を盛り土に入れ、村の安泰と発展を願うために作った」(案内板)とありました。
  

2016年4月3日日曜日

2016高遠コヒガンザクラ

  4月1日、子供たちの仕事の都合もあって、4歳になる孫の面倒を見ることになりました。午前中、折からの晴天に恵まれ、、孫が楽しみにしていた高遠小学校に遊びに行くと、「タカトオコヒガンザクラ」が開花していました。
  当年68歳。仕事のストレスも忘れ、孫が近くにいることも忘れ、しばしスマホを構えておりました。
  これから暫く、花見客の喧騒に巻き込まれるのですが・・・・・
それでも、春がめぐりくるのはうれしいものです。

2016年1月8日金曜日

役行者像(伊那市御園 白山社)

  伊那市の旧国道361号線(現県道146号線)の南箕輪村と境を接するところに御園という所があります。その住宅地の狭い道をうねうねと登って行くと、「白山社」という小さなお社があります。その本殿の後ろに、この役行者の石像が置かれていました。
  岩に腰を下ろし左手には経巻、右手にはおそらく錫杖を持つ姿でしょうか、ただ、周囲を見ても前鬼・後鬼の従者の姿が見えませんでした。それと、経巻の一部が欠けているようでした。
  それはそれとして、なかなかすっきりとしたお顔立ちでした。