伊那市西春近小出二区山本集会所の少し上に三叉路の辻があって、双体道祖神が祀られています。猫神様はその集会所の裏手にあるのですが、書物によるとこの近くにもう一体あるというので、雨になる前に、出かけました。
集会所から辻を右手に取っていくと中央高速の下をくぐります。さらに坂道を登っていくと、道祖神場のようなものがありました。車から降りてみると辻の所に小さな道標があり、藪の奥に日本武尊等の文字碑が3基と、自然石に半肉彫りの「不動明王像」があります。ところが、目当ての猫神様がありません。しかたがないので、そのまま車を走らせていくと、いくつかの集落を過ぎ山の中へと入ってしまいました。諦めかけて戻る道、件の場所に車を止め足元の叢を手でかき分けていると、60cm位の平板な石が二つ出てきました。よく見るとかすかに何か彫られた跡があります。一個は「蛇神」でもう一つが「猫神」でした。
猫神を祀っていた所でも、今は猫神の性格を知る人も少なくなってきました。先日も、ある山間の集落に行き、猫神のありかを近くの老婦人に聞いたところ、あまり明確な答えを得ることができず、周囲の山を探しましたが見ることができませんでした。
彫刻もだんだん薄れていき、ただの石ころになってしまいそうです。しかたがないのかもしれません。
2011年6月24日金曜日
2011年6月23日木曜日
辰野町の双体道祖神(4)
2011年6月20日月曜日
球形道祖神
長野県の道祖神の形といえば、安曇野に代表される「双体像」と文字碑であるが、私は出身が山梨県の東部ということもあり、子供の時から親しんできたのは「球形(体)道祖神」です。
6月18日、伊那市長谷で行われた「古道・秋葉街道ウォーキング」というイベントに参加しました。これは、長谷市野瀬から高遠城址公園までの約13㎞をあるこう、という催しです。
この催しに参加したのには私なりに目的があり、その一つに、村歌舞伎でも知られている「中尾歌舞伎」の里中尾の辻にある双体道祖神の写真を撮ることでした。以前にも何度か訪れたことがある場所でしたが、あらためてじっくり見ていると、双体道祖神やいろいろな石仏・文字碑にまじって、昔なじみの球体道祖神があるではありませんか。説明者が「この地区は昔、甲州とのつながりがあったのかもしれません。」、と解説されていましたが、いずれまた調べてみようか、と興味をそそられました。
『上伊那郡誌』という書物によると、上伊那には中尾にあるものを含めて3か所の球体道祖神が報告されています。機会を見て出かけようと思っています。
6月18日、伊那市長谷で行われた「古道・秋葉街道ウォーキング」というイベントに参加しました。これは、長谷市野瀬から高遠城址公園までの約13㎞をあるこう、という催しです。
この催しに参加したのには私なりに目的があり、その一つに、村歌舞伎でも知られている「中尾歌舞伎」の里中尾の辻にある双体道祖神の写真を撮ることでした。以前にも何度か訪れたことがある場所でしたが、あらためてじっくり見ていると、双体道祖神やいろいろな石仏・文字碑にまじって、昔なじみの球体道祖神があるではありませんか。説明者が「この地区は昔、甲州とのつながりがあったのかもしれません。」、と解説されていましたが、いずれまた調べてみようか、と興味をそそられました。
『上伊那郡誌』という書物によると、上伊那には中尾にあるものを含めて3か所の球体道祖神が報告されています。機会を見て出かけようと思っています。
2011年6月13日月曜日
辰野町の双体道祖神(3)
仕事上、法令により定められた「講習」を年に何時間か受けなければなりません。もう歳だから勘弁してよ・・・・・と、思っても、この業界にいる限り、マイクロバスに揺られ、指定された会場へと向かいました。
あった・あった・あった!
双体道祖神です。辰野町の俗に竜東線。信号機の柱のすぐ下。
・・・・・、というわけで出かけました・・・が、件の場所は工事中。仕方ないので又にしよう、ということで、ほかの所。
赤羽(アカハネと読みます)という所の八嶋神社の鳥居前の辻にあった双体道祖神。年代はわかりませんが、書物によると、以前は男女の神様が持っている巻物に「看之人延命」と刻まれていた、とのこと。今は風化して、文字があった形跡が残っているだけでした。
こちら、日本最古の双体道祖神、といわれる沢底入村の道祖神に行く道から少し右に入ったところ、「山寺」という集落入口の三叉路にある道祖神。いわゆる「祝言」の形です。かたを組み、男神は杯を持ち、女神は酒器を持っています。日・月が刻まれています。
こちらは三体のうちでは最も古いものかもしれません。天明3年(1783)とあります。男神が女神の腕を握っているようにも見えますが、舟形光背げすが、前のと同じく杯と酒器のようにも見えます。いずれにしても、男女仲良く肩を組んでいます。
安曇野だけが双体道祖神のメッカではありません。伊那平にも双体道祖神はありますし、古いものが数多く残されています。特に、辰野という所は古くから交通の要所だったためか、道祖神が多く残されています。
あった・あった・あった!
双体道祖神です。辰野町の俗に竜東線。信号機の柱のすぐ下。
・・・・・、というわけで出かけました・・・が、件の場所は工事中。仕方ないので又にしよう、ということで、ほかの所。
赤羽(アカハネと読みます)という所の八嶋神社の鳥居前の辻にあった双体道祖神。年代はわかりませんが、書物によると、以前は男女の神様が持っている巻物に「看之人延命」と刻まれていた、とのこと。今は風化して、文字があった形跡が残っているだけでした。
こちら、日本最古の双体道祖神、といわれる沢底入村の道祖神に行く道から少し右に入ったところ、「山寺」という集落入口の三叉路にある道祖神。いわゆる「祝言」の形です。かたを組み、男神は杯を持ち、女神は酒器を持っています。日・月が刻まれています。
こちらは三体のうちでは最も古いものかもしれません。天明3年(1783)とあります。男神が女神の腕を握っているようにも見えますが、舟形光背げすが、前のと同じく杯と酒器のようにも見えます。いずれにしても、男女仲良く肩を組んでいます。
安曇野だけが双体道祖神のメッカではありません。伊那平にも双体道祖神はありますし、古いものが数多く残されています。特に、辰野という所は古くから交通の要所だったためか、道祖神が多く残されています。
2011年6月6日月曜日
善光寺式阿弥陀三尊石仏
信濃といえば善光寺。その善光寺に伝えられているのが、善光寺式阿弥陀三尊の立像です。
過日、猫神の石像を見に出かけた所、石造群の始めの位置に小さなお堂があり、その中に件の三尊像が安置されていました。刊行物によると、明治22年(1891)2月18日建立。大きさは70×45×25cmとあります。保存状態が良く、光背に施された装飾も良く残っています。
過日、猫神の石像を見に出かけた所、石造群の始めの位置に小さなお堂があり、その中に件の三尊像が安置されていました。刊行物によると、明治22年(1891)2月18日建立。大きさは70×45×25cmとあります。保存状態が良く、光背に施された装飾も良く残っています。
2011年6月4日土曜日
道祖神
高くて遠い高遠の、そのまたさらに遠くて高い所にある弘妙寺というお寺。そのお寺の入り口である伊那市高遠町三義荊口北垣外という所に双体道祖神がある、というので、昨年から何度か出かけました。ところが、何度となくいってもそれらしい石像がありません。しかたがないので、今回橋のたもとの一軒しかないお店で聞くことにしました。
「すみません。この辺りにこの写真の道祖神はありませんか。」と、『高遠の石仏』という本を差し出しながらたずねると、「大水で流された」とのこと・・・・・
しかたないので帰路につきましたが、途中文字道祖神があったので写してきました。
両側に馬頭観音を配置した、堂々とした文字です。
こちらは、「道祖神」の文字の周囲に装飾を施してあります。
「さいの神」と仮名交じりで彫ってある道祖神。
「すみません。この辺りにこの写真の道祖神はありませんか。」と、『高遠の石仏』という本を差し出しながらたずねると、「大水で流された」とのこと・・・・・
しかたないので帰路につきましたが、途中文字道祖神があったので写してきました。
両側に馬頭観音を配置した、堂々とした文字です。
こちらは、「道祖神」の文字の周囲に装飾を施してあります。
「さいの神」と仮名交じりで彫ってある道祖神。
登録:
投稿 (Atom)