片袖を脱ぎ、左右の手で斧を振り上げ、両足でしっかりと大地を踏みしめ、今にも大木を切り倒そうとしている。大山祇尊の石像です。よく見ると、目と口元に彩色を施した跡が残っています。
大山津見神。『大日本神名辞書』によると、「此神は山を持ち司り給ふ故に負ひ給ひし御名なり大といへるは総へてを持ち給ふを讃へての御名なり伊邪那岐伊邪那美二神の御子なり」とあって、山の神を統べる神であることが知られます。
安置してあるのは、高く遠く飛ばすことができるゴルフ寺。伊那市高遠の荊口にある弘妙寺。本堂の裏に不動明王と並んでおられます。このお寺はパワースポットとしても有名なのか、山奥にもかかわらず、今日も大勢の車が駐車場に並んでいました。
石仏ではなく、石に掘られた神像はこのあたりでもあまりお目にかかれません。自然石に名前が彫られているのは、少しではありますが見かけることはありますが……
2019年11月23日土曜日
2019年1月5日土曜日
堅窂地神尊 (伊那市高遠町番匠)
伊那市高遠町の「さくらの湯」から西の方角に、やや平坦ではあるが鉾持神社の 石垣に続く道が井筋に沿って延びている。歩く事5分ほどで井筋をはさんで北側に、ベンチが置いてある小さな公園(?)があり、そこに件の石碑がある。碑文は「堅窂地神尊(尊字は下部が不明)」。高さは1m50cm強。建立年等の銘は無し。
『佛教語大辞典』(中村元著)には、
堅牢地神また堅牢地祇・堅牢地大ともいう。大地の神をいう。地神。この神は大地を堅固にたもつから、こうよばれる。また、常に教えが流布するところにおもむいて、法座の下にあって敬い守るという。もと女神であるが、密教では男女の二神があって、胎蔵界曼荼羅外金剛部院に属している。
と記述されています。
さて、現場は下の写真で見る通り背後に山を控えた、南に面した急傾斜地の中段にあります。横一列に並ぶ住宅の前に、1850年(嘉永3)完成の一番井筋が流れています。この井筋の、また、この土地の堅固を願うために建立されたものでしょうか。
『佛教語大辞典』(中村元著)には、
堅牢地神また堅牢地祇・堅牢地大ともいう。大地の神をいう。地神。この神は大地を堅固にたもつから、こうよばれる。また、常に教えが流布するところにおもむいて、法座の下にあって敬い守るという。もと女神であるが、密教では男女の二神があって、胎蔵界曼荼羅外金剛部院に属している。と記述されています。
さて、現場は下の写真で見る通り背後に山を控えた、南に面した急傾斜地の中段にあります。横一列に並ぶ住宅の前に、1850年(嘉永3)完成の一番井筋が流れています。この井筋の、また、この土地の堅固を願うために建立されたものでしょうか。
2018年2月1日木曜日
三面大黒天(石造彩色)(安曇野市穂高 矢原)

昔時伝教大師比叡山開基の時、福神に祈誓し給ふ事あり。我此の山を開きて仏法流布王法長久の祈願相比し、三千の衆徒を住せんと誓ふ。衣食共に乏しくては叶ふべからず。天神地祇此の願を助力し給はゞ、一の瑞を見せしめ給へと、丹誠を抽で給ふ時に、三面の福神忽然として出現する。所謂大黒・毘沙門・弁才天合体の一像なり。大師喜び給ひ、此の像をうつしめんと、即時三体同じ形像に刻み給ふ。
これは吉田貞吉著『福神研究』という書物に紹介されている『宗祇諸国物語』の一文ですが、普通大黒天というと、石像でも単体像が多く見られます。ところが、安曇野市穂高矢原という所には、上述の文のような「三面大黒天」の像があります。
矢原公民館の奥、清国庵という御堂の中、青面金剛像の向かって右隣に何ともにこやかな仏さまが刻まれています。頭上には「南無妙法蓮華経」の髭文字の題目。両足で宝珠の付いた米俵を踏み、左肩に大きな袋を掛け右手には打ち出の小づち、と、ここまではいつもの大黒様ですが、右肩に毘沙門天、左肩に弁才天、それぞれに二臂があり、毘沙門天は三叉鉾と杵とを持ち、弁才天は鑰(鍵)と宝珠とを持っています。明治九年丙子年十月足日の記銘があるそうです。足日は「たるひ」とよみ、広辞苑によれば「物事の十分に満ち足りた日。よい日。吉日。」という意味だそうです。
2016年12月4日日曜日
六地蔵尊(伊那市長谷溝口)
伊那市長谷溝口の尾田屋という集落の南の辻。十数個の石仏・石碑の中央に置かれているのが、この六地蔵の像です。高さ40cm弱、幅35㎝程の石に六体のお地蔵さまが彫られています。上部に刻まれた「為先亡孩子菩提」の文字。
「孩子」。中国語では「子供」とか「児童」とかの意(『中日辞典』小学館)。『広漢和』では、「ニ、三歳の小児。ちのみご。みどりご。」とあります。
戒名では、概ね2・3歳で亡くなった子供につけるようです(Wikipediaによる)。
道端の小さなちいさな六地蔵です。
「孩子」。中国語では「子供」とか「児童」とかの意(『中日辞典』小学館)。『広漢和』では、「ニ、三歳の小児。ちのみご。みどりご。」とあります。
戒名では、概ね2・3歳で亡くなった子供につけるようです(Wikipediaによる)。
道端の小さなちいさな六地蔵です。
2016年11月6日日曜日
武雄温泉の淀姫社と石造十王像(佐賀県武雄市)
佐賀県の武雄温泉に湯桶し、翌朝、楼門の辺りをぶらぶらしていると「←淀姫社」案内板が目に入りました。「ン? 淀姫の神社?」
案内されるままに坂を上り、さらに石段を登って行くと件の石鳥居がありました。
『大日本神明辞書』に「ヨドヒメノミコト 與杼比賣命一に淀姫に作る豊姫とも申す神功皇后の御妹なり。三韓征伐の際干満両顆を得て異国の兇徒を海中に覆没せしめ給う(以下略)」とあります。豊臣秀頼の母親の淀君ではありませんでした。
石鳥居の上奥の石祠が淀姫社で、その右奥にもう一つ祠がありますが、確認しませんでした。近くの案内板によると、武雄温泉(古くは「柄崎温泉」と言ったようです。)に入浴された淀姫が、入浴後に休憩された所だそうです。
石鳥居の横に薬師如来の石仏がありました。前にある狛犬の古さに比べると、如来さんの方に新しさを感じました。近くの案内板によると、元の薬師如来は明治35年11月に鋳造、温泉の守神(鎮守)として安置されたが、昭和17年頃第二次世界大戦の軍用として供出された、とあったので、納得。
石段の下、カーブの手前に小さな石窟があり、六地蔵やらの石造物が雑然と置かれていました。よく見ると下の写真のような二佛の像がありました。他にも唐風の像があり、二佛の像が「司命・司録」像だとすれば、バラバラになってはいるものの、ここに石造の十王像が安置されていたのでは? と思いました。
これは、司命・司録の像?
案内されるままに坂を上り、さらに石段を登って行くと件の石鳥居がありました。
『大日本神明辞書』に「ヨドヒメノミコト 與杼比賣命一に淀姫に作る豊姫とも申す神功皇后の御妹なり。三韓征伐の際干満両顆を得て異国の兇徒を海中に覆没せしめ給う(以下略)」とあります。豊臣秀頼の母親の淀君ではありませんでした。
石鳥居の上奥の石祠が淀姫社で、その右奥にもう一つ祠がありますが、確認しませんでした。近くの案内板によると、武雄温泉(古くは「柄崎温泉」と言ったようです。)に入浴された淀姫が、入浴後に休憩された所だそうです。
石鳥居の横に薬師如来の石仏がありました。前にある狛犬の古さに比べると、如来さんの方に新しさを感じました。近くの案内板によると、元の薬師如来は明治35年11月に鋳造、温泉の守神(鎮守)として安置されたが、昭和17年頃第二次世界大戦の軍用として供出された、とあったので、納得。
石段の下、カーブの手前に小さな石窟があり、六地蔵やらの石造物が雑然と置かれていました。よく見ると下の写真のような二佛の像がありました。他にも唐風の像があり、二佛の像が「司命・司録」像だとすれば、バラバラになってはいるものの、ここに石造の十王像が安置されていたのでは? と思いました。
これは、司命・司録の像?
2016年1月8日金曜日
役行者像(伊那市御園 白山社)
2015年4月24日金曜日
桜本地蔵尊(伊那市羽広 仲仙寺)
文政13年(1830)の春頃、というからおよそ200年くらい前、伊那を流れる天竜川を利用して「通船」という物流事業が開始されたという(『上伊那誌』歴史編による)。この事業は、休船等の紆余曲折があったものの、明治30年代までは続けられていたようです。その船着き場があったといわれている場所が、現伊那市坂下の入舟という所。さて、伊那市羽広に仲仙寺という天台宗の寺院があり、本来60年に一度の秘仏本尊の御開帳を、創建1,200年の記念年に当たる今年に日を限って特別御開帳を行う、というので妻と同道で出かけました。
山門手前に地蔵堂があり、以前は目にしなかった急ごしらえの(ラミネート作りの)案内板が設置してありました。「要旨」とあり、以下の文章が記されていました。伊那町の入船の舟問屋に、みめうるわしい生まれつき口のきけない”おなみ”という女がいました。女が12歳の時、母の枕元に定期的に参拝するようにとのお告げがありました。町からお寺まで54町、翌朝から母娘連れだって1日も欠かすことなく参拝。満願の日、強風と小雪が吹き付け身が凍えるばかり、娘が「かあさん寒いよう」と母の体にしがみついた。母は「お前、今何と言った。」と女を抱きしめ、お地蔵様の前に泣き伏した。舟問屋ではお地蔵さまのおかげと感謝し、お地蔵さまも寒くないようにと三河木綿の着物に厚い綿を入れて作りきせたという
見ると、お地蔵さまが二体、一体は石造の「桜本地蔵尊」、もう一体はそれより小ぶりで木造の「青空地蔵尊」と命名されていました。
2014年7月25日金曜日
役行者像(箕輪町八乙女)
2013年7月23日火曜日
甲子待と大黒様
干支の始めは「甲子」…きのえね です。人生60年、生まれ年の干支(えと)に再び巡り合えるのは、本当に幸運の極み、その巡りあわせを祈念して石塔(石碑)をみんなで力を合わせてたてようか、ということで建てた……
と、軽く考えていました。実は昭和59年が甲子の年。私たちの町内でも子供たちが石碑に結んだ綱を引き町のはずれに運んで建てた記憶があったからです。
それにしても庚申碑と同じように、この辺りでは庚申碑がある所に必ずと言ってよいほど甲子碑があります。それも同じ数程。
というわけで、地元の『伊那谷の石仏』(竹入弘元著)をひろげて見ると、この地域に数例の甲子講が残っていることが記されていました。
さて、甲子といえば「大黒天」。安曇野の双体道祖神は大黒天とペアで祀られているのが多いのですが、伊那谷伊那の平では、大黒天の文字碑はあっても、像に刻まれたものはあまりありません。
こちら、駒ヶ根市下平 天台宗長春寺というお寺の境内。四角柱の中に彫り込まれた大黒天の像です。文化元年(1804)のもの。右手に打出の小槌を持ち左手で袋を担ぎ俵に乗ったお姿です。
辰野町堀上 JR中央線辰野駅から塩尻駅に向かう線路の近く、丘の上に蚕神やもろもろの石碑石像の中に、かなり目立つ大黒様です。元治元年(1864)の建立。

大黒様といえば恵比須様。上の大黒天とペアのように、向かって右、少し離れたところに置かれていた「恵比寿様」の像です。明治6年(1873)の建立です。
と、軽く考えていました。実は昭和59年が甲子の年。私たちの町内でも子供たちが石碑に結んだ綱を引き町のはずれに運んで建てた記憶があったからです。
それにしても庚申碑と同じように、この辺りでは庚申碑がある所に必ずと言ってよいほど甲子碑があります。それも同じ数程。
というわけで、地元の『伊那谷の石仏』(竹入弘元著)をひろげて見ると、この地域に数例の甲子講が残っていることが記されていました。
さて、甲子といえば「大黒天」。安曇野の双体道祖神は大黒天とペアで祀られているのが多いのですが、伊那谷伊那の平では、大黒天の文字碑はあっても、像に刻まれたものはあまりありません。
こちら、駒ヶ根市下平 天台宗長春寺というお寺の境内。四角柱の中に彫り込まれた大黒天の像です。文化元年(1804)のもの。右手に打出の小槌を持ち左手で袋を担ぎ俵に乗ったお姿です。
辰野町堀上 JR中央線辰野駅から塩尻駅に向かう線路の近く、丘の上に蚕神やもろもろの石碑石像の中に、かなり目立つ大黒様です。元治元年(1864)の建立。

大黒様といえば恵比須様。上の大黒天とペアのように、向かって右、少し離れたところに置かれていた「恵比寿様」の像です。明治6年(1873)の建立です。
2013年4月9日火曜日
半跏思惟のお地蔵様 『機(はたご)地蔵』 (伊那市美篶下川手)
伊那市美篶下川手、今は下川手公民館になっている場所に、かつて昭和45年頃まで「永安寺(地元の人は単に「お堂」と呼んでいます)」というお寺があったそうです。今は取りこわされて公民館の敷地内北側に「愛宕山」という名前のお堂が建ててあり、中に本尊と思われる三体の仏像が、それぞれ厨子に入れられて安置されています。
その堂と公民館の間東奥に、石のお地蔵様が安置されています。
機地蔵(はたごじぞう)の名前の由来は、かつて、機織りが終わるとその織口を切り取り、お地蔵様の首に掛け、次の機の首尾を祈った、 という所からきているそうです。
お地蔵さまには珍しい半跏思惟のお姿。左手には宝珠。光背にも宝珠が刻まれています。
文政12年(1829)3月24日建立。台座を含めての高さ約1m余。台座に一字金輪の種子「ボロン」と「頂禮摩訶薩 自期久遠先 阿僧聞見者 永劫超人天」の讃が刻まれています。
永安寺(お堂)の写真は『みすず』(美篶村誌編纂委員会 1972年刊)所載の物を転載いたしました。
その堂と公民館の間東奥に、石のお地蔵様が安置されています。
機地蔵(はたごじぞう)の名前の由来は、かつて、機織りが終わるとその織口を切り取り、お地蔵様の首に掛け、次の機の首尾を祈った、 という所からきているそうです。お地蔵さまには珍しい半跏思惟のお姿。左手には宝珠。光背にも宝珠が刻まれています。
文政12年(1829)3月24日建立。台座を含めての高さ約1m余。台座に一字金輪の種子「ボロン」と「頂禮摩訶薩 自期久遠先 阿僧聞見者 永劫超人天」の讃が刻まれています。
永安寺(お堂)の写真は『みすず』(美篶村誌編纂委員会 1972年刊)所載の物を転載いたしました。
2013年3月17日日曜日
役行者像(長野県宮田村)

北割地区の元宮神社、本殿脇の役行者像。この像の前鬼・後鬼の夫婦の鬼の像はそれぞれ別に彫られ行者像の前脇に置かれているが、残念ながら左側の一体は頭部が欠けている。
宝暦14年(1764)のもの。
こちら、以前にも紹介したことがある 新田地区行者橋の辻の役行者像。大きな自然石を穿った祠の中に納まっている。石祠は文政13年(1830)とあり、石像台座には寛政8年(1796)とある。夫婦の鬼は、行者像と一体に行者の膝の前に掘られている。
町二区 津島神社の役行者像。宝暦8年(1758)の像。大田切区 天竜川にそそぐ、かつて激流で有名な「大田切川」。 江戸時代、渡し場であったところに20数基の石像があり、そのなかのいったいです。自然石を刳りぬいた祠の中に納まっています。安永2年(1773)。
中越区南羽場 これはまた大きな自然石。『宮田村の石造文化財』(宮田村教育委員会刊)によれば、高さ4.6m 幅5.1m 奥行3.85m 「南無阿弥陀仏」の名号が彫られ、延亨元年(1744)の銘。
その大石の向かって左側を刳りぬいて、中に役行者像が納められています。
霊山木曽駒ケ岳の麓宮田村にある、4体の役行者像です。
2013年1月23日水曜日
北辰霊符三尊像(霊符尊神(長野県上伊那郡辰野町))
上伊那郡辰野町上辰野の堀上。山間を縫うように国道153号線とJR中央線西線、そして生活道路が走っていますが、その道路と鉄路を見下ろすような土手の上に、木造りの簡単な鳥居、その奥の小さな祠の左右に石碑が並んでいます。
左側に大黒様と甲子の文字碑、それに蚕神様。右手には恵比寿様と何やら解らないが三人の神様のような石像。
左側面に「明治七年甲戌七月廿八日」と刻んであります。1874年の造立です。像の周囲には八卦の文様。主神の足の下には亀と蛇が刻まれています。脇に立つ神様(?)も普通に見ることが出来る佛像の持ち物とは違ったものを持っています。
この像については、竹入弘元氏の『上伊那の石仏』にも記述がありません。不思議な石像です。
2017年7月、やっと『辰野町の石造文化財』が、辰野町文化財保護審議会の編集によって発行されました。これによると、この像の名前は「北辰霊符三尊像」(霊符尊神)と記されています。とすると、中央が霊符尊神、脇侍は抱卦童子と示卦童郎のお姿が刻まれていることになります。
なぜこの場所に、このような像があるのかはわかりませんが?
なぜこの場所に、このような像があるのかはわかりませんが?
2012年4月15日日曜日
宇津木の薬師堂(伊那市長谷杉島)
高遠の小彼岸桜の開花が昨年よりかなり遅く、今か今かと待ちかねているところに、伊那市のメールによるお知らせで「宇津木の薬師堂で33年に一度の御開帳」というのがあった。
ところで、宇津木の薬師堂……?
ということで、『木ノ下蔭』
「一 市瀬より南十町餘ゆき薬師堂ありうつぎ薬師といふ山中の堂にはめづらしき丁寧の普請なり此薬師を戸倉の薬師ともいふ諏訪の萩倉上伊那の七倉この戸倉にて三倉薬師同木を以て同作佛體霊験他に異るよしいひ傳ふ祭三月八日近郡より参詣して群集す堂前の額福地随流筆なり卯木村は杉島の枝村なり
一 別當長福山法恩寺曹洞宗龍勝寺の末なり扶岩策和尚天正十七己丑年開基なり本尊は阿彌陀如來」
ということらしい。本年4月15日の今日が、33年ぶりの御開帳の日。
山の中の小さなお寺。
臨時の駐車場に車を入れ、待つこと10分。シャトルバスと称する10人乗りのハイエースに乗車して待つことさらに10分。下りの車が駐車場に着いたことを確認してから発車オーライ……要は、普通自動車がすれ違いすることができないのです。徒歩で30~40分位だそうです。少しずるをしました。
秘仏ではありますが、撮影しても良い、とのこと。何とも言えず、素朴な仏様でした。
次は33年後、
良縁を得られる仏様だそうです。
ところで、宇津木の薬師堂……?
ということで、『木ノ下蔭』
「一 市瀬より南十町餘ゆき薬師堂ありうつぎ薬師といふ山中の堂にはめづらしき丁寧の普請なり此薬師を戸倉の薬師ともいふ諏訪の萩倉上伊那の七倉この戸倉にて三倉薬師同木を以て同作佛體霊験他に異るよしいひ傳ふ祭三月八日近郡より参詣して群集す堂前の額福地随流筆なり卯木村は杉島の枝村なり
一 別當長福山法恩寺曹洞宗龍勝寺の末なり扶岩策和尚天正十七己丑年開基なり本尊は阿彌陀如來」
ということらしい。本年4月15日の今日が、33年ぶりの御開帳の日。
山の中の小さなお寺。
臨時の駐車場に車を入れ、待つこと10分。シャトルバスと称する10人乗りのハイエースに乗車して待つことさらに10分。下りの車が駐車場に着いたことを確認してから発車オーライ……要は、普通自動車がすれ違いすることができないのです。徒歩で30~40分位だそうです。少しずるをしました。
秘仏ではありますが、撮影しても良い、とのこと。何とも言えず、素朴な仏様でした。
次は33年後、
良縁を得られる仏様だそうです。
2012年1月20日金曜日
庚申地蔵(伊那市富県桜井)
いつもの書店。定期購読の書籍に、時折々の地方出版社の出版案内が、ガリ版刷りで届きます。今回は「貝沼一夜の城」に関する講演会の記録。思い立って休日、現地へと出かけました。その近くに「宮ノ花八幡社」という社があり、その社地と県道の際の土手の上に、何とも素朴な石仏がありました。
舟形光背の中央に地蔵様、頭頂左右に日輪・月輪。足下に二猿とも二鶏ともつかぬデフォルメされた動物の姿。まごうことなく「庚申地蔵」の像。いつの建立かを知る手掛かりはありませんでした。
舟形光背の中央に地蔵様、頭頂左右に日輪・月輪。足下に二猿とも二鶏ともつかぬデフォルメされた動物の姿。まごうことなく「庚申地蔵」の像。いつの建立かを知る手掛かりはありませんでした。
2011年12月4日日曜日
青面金剛像(伊那市長谷溝口)
2011年11月16日水曜日
咳の地蔵様二題
こちら、伊那市高遠町の香福寺というお寺の本堂への登り口にある、「咳の地蔵堂」内のお地蔵様。享和2年(1802)に蛙鳴という人が書いた説明文があるそうです。その中に「せき症の者は必ず南蛮を奉り祈願を成せば忽ち報い給ふ(堂前の説明板より)」とあるそうです。
次は、上伊那郡飯島町田切にある「関の地蔵尊」。昔武田信玄が伊那地方を制圧したときに、この地に関所を設けたから「関」というのだそうです。「セキ」だから咳を治してくれるお地蔵様、ということになったそうです。 姿が普通のお地蔵さまとだいぶ異なるので、近くにマリア像に似た観音像があることから、「マリア地蔵では」(雑誌『伊那路』昭和50年)と言われたこともありました。が、実はこの石像は地蔵様ではない、という話が『飯島町の石造文化財』という本に載っていて面白い。江戸時代の木喰行者、木喰但唱がモデルとのこと。寛文10年(1670)の建立だそうです。
次は、上伊那郡飯島町田切にある「関の地蔵尊」。昔武田信玄が伊那地方を制圧したときに、この地に関所を設けたから「関」というのだそうです。「セキ」だから咳を治してくれるお地蔵様、ということになったそうです。 姿が普通のお地蔵さまとだいぶ異なるので、近くにマリア像に似た観音像があることから、「マリア地蔵では」(雑誌『伊那路』昭和50年)と言われたこともありました。が、実はこの石像は地蔵様ではない、という話が『飯島町の石造文化財』という本に載っていて面白い。江戸時代の木喰行者、木喰但唱がモデルとのこと。寛文10年(1670)の建立だそうです。
2011年11月5日土曜日
役行者像(長野県上伊那郡宮田村)
2011年7月20日水曜日
閻魔大王への道
伊那市西春近深妙寺。曇天の朝、紫陽花を見ながら、其処此処の観音様を拝みながら歩いていると、岡を巡る道のはずれに小さなトンネルがありました。「通り抜け可」とのこと。ちょっと暗いし・・・・基本的に暗くて、狭くて、高い所は嫌いなのですがここはお寺の境内、意を決してトンネルをくぐりました。
トンネルをくぐると、其処は雪国、ではなくて、閻魔大王の國。岩を背景に、見事な石の閻魔大王がこちらを睥睨しております。
母親の手を離れた2歳くらいと思われる女の子が、大王の台座に手を当てて遊んでおりました。
あの怖いこわ~い閻魔様も、純真な女の子にはただのお祖父さんの人形・・・なのかもしれません。
トンネルをくぐると、其処は雪国、ではなくて、閻魔大王の國。岩を背景に、見事な石の閻魔大王がこちらを睥睨しております。
母親の手を離れた2歳くらいと思われる女の子が、大王の台座に手を当てて遊んでおりました。
あの怖いこわ~い閻魔様も、純真な女の子にはただのお祖父さんの人形・・・なのかもしれません。
2011年6月20日月曜日
球形道祖神
長野県の道祖神の形といえば、安曇野に代表される「双体像」と文字碑であるが、私は出身が山梨県の東部ということもあり、子供の時から親しんできたのは「球形(体)道祖神」です。
6月18日、伊那市長谷で行われた「古道・秋葉街道ウォーキング」というイベントに参加しました。これは、長谷市野瀬から高遠城址公園までの約13㎞をあるこう、という催しです。
この催しに参加したのには私なりに目的があり、その一つに、村歌舞伎でも知られている「中尾歌舞伎」の里中尾の辻にある双体道祖神の写真を撮ることでした。以前にも何度か訪れたことがある場所でしたが、あらためてじっくり見ていると、双体道祖神やいろいろな石仏・文字碑にまじって、昔なじみの球体道祖神があるではありませんか。説明者が「この地区は昔、甲州とのつながりがあったのかもしれません。」、と解説されていましたが、いずれまた調べてみようか、と興味をそそられました。
『上伊那郡誌』という書物によると、上伊那には中尾にあるものを含めて3か所の球体道祖神が報告されています。機会を見て出かけようと思っています。
6月18日、伊那市長谷で行われた「古道・秋葉街道ウォーキング」というイベントに参加しました。これは、長谷市野瀬から高遠城址公園までの約13㎞をあるこう、という催しです。
この催しに参加したのには私なりに目的があり、その一つに、村歌舞伎でも知られている「中尾歌舞伎」の里中尾の辻にある双体道祖神の写真を撮ることでした。以前にも何度か訪れたことがある場所でしたが、あらためてじっくり見ていると、双体道祖神やいろいろな石仏・文字碑にまじって、昔なじみの球体道祖神があるではありませんか。説明者が「この地区は昔、甲州とのつながりがあったのかもしれません。」、と解説されていましたが、いずれまた調べてみようか、と興味をそそられました。
『上伊那郡誌』という書物によると、上伊那には中尾にあるものを含めて3か所の球体道祖神が報告されています。機会を見て出かけようと思っています。
2011年6月4日土曜日
道祖神
高くて遠い高遠の、そのまたさらに遠くて高い所にある弘妙寺というお寺。そのお寺の入り口である伊那市高遠町三義荊口北垣外という所に双体道祖神がある、というので、昨年から何度か出かけました。ところが、何度となくいってもそれらしい石像がありません。しかたがないので、今回橋のたもとの一軒しかないお店で聞くことにしました。
「すみません。この辺りにこの写真の道祖神はありませんか。」と、『高遠の石仏』という本を差し出しながらたずねると、「大水で流された」とのこと・・・・・
しかたないので帰路につきましたが、途中文字道祖神があったので写してきました。

両側に馬頭観音を配置した、堂々とした文字です。

こちらは、「道祖神」の文字の周囲に装飾を施してあります。

「さいの神」と仮名交じりで彫ってある道祖神。
「すみません。この辺りにこの写真の道祖神はありませんか。」と、『高遠の石仏』という本を差し出しながらたずねると、「大水で流された」とのこと・・・・・
しかたないので帰路につきましたが、途中文字道祖神があったので写してきました。

両側に馬頭観音を配置した、堂々とした文字です。

こちらは、「道祖神」の文字の周囲に装飾を施してあります。

「さいの神」と仮名交じりで彫ってある道祖神。
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