かつて中国の東北部に、日本は「満州国」という国を作りました。その満州国に国策により沢山の日本人が入植しました。長野県の上伊那地域からも、3,000人近くの人が入植しました。しかし、日本の敗戦により多くの人が、満州に地に取り残され、亡くなりました。長野県上伊那郡箕輪町の萱野高原。信州かやの山荘という宿泊施設の東側、林の中に「満州引揚物故者慰霊碑」という石碑があります。昭和42年(1967)5月14日に除幕されたといいます。2,246柱の霊がまつられている、とのことです。
2012年、近所の家から出火した火災により類焼の被害を受け、地域の人々の努力により再建しましたが、厨子・木製の祠は焦げたままの状態で祀られていました。写真ではお地蔵様のお顔がよくわからないので、『手良区誌』に掲載されている写真を引用させていただきました。
文政13年(1830)の春頃、というからおよそ200年くらい前、伊那を流れる天竜川を利用して「通船」という物流事業が開始されたという(『上伊那誌』歴史編による)。この事業は、休船等の紆余曲折があったものの、明治30年代までは続けられていたようです。その船着き場があったといわれている場所が、現伊那市坂下の入舟という所。
山門手前に地蔵堂があり、以前は目にしなかった急ごしらえの(ラミネート作りの)案内板が設置してありました。「要旨」とあり、以下の文章が記されていました。
辰野町平出に妙雲山高徳寺という真言宗のお寺があります。このお寺の境内地に「蚕玉神社」があるというので、出かけました。お寺につきまず目立つのが「七観音」の石仏(背景の民家はお寺とは関係ありません)。件の蚕玉神社は、お寺を右側に辿って行くと「常楽庵」というのがあり、たまたま御住職と奥様と思われる方がいらっしゃったので、許可をいただいて神社へと向かいました。
『辰野町誌』によると、蚕玉神社は明治27-30年頃に千葉県筑波郡神郡村(誌の記述のまま)の蚕影山蚕玉大明神の出張所を平出にお招きし新築した、とあります。
社殿上部の装飾です。