2014年12月8日月曜日

隠れキリシタン(?)の遺跡(駒ヶ根市中沢)

  江戸時代の初めころ、信州の山深い高遠藩にも、キリシタンを信仰していた咎により処刑された人がいました。一人は四郎左衛門という元武士である身分を捨てた商人。そしてもう一人は、その息子の丹瑞という僧侶です。
  事の顛末は、以下の通りです。多少物語じみてはいますが、『上伊那郡史』という書籍から引用します。
 寛永八年中沢郷中曽倉に重兵衛と云へるものゝ後家あり、早く夫に別れ単身孤立して家を守り居たりしが、或時城早と云ふ座頭と親しく情を交へて出入したり。然るに寛永十七年加賀国の生れにて小間物商四郎左衛門と云ふもの、遍歴して此の地に来り、何時しか又此の後家と交り同居して月日を送りたり。此の四郎左衛門は天下御法度の切支丹法を心得て奇怪なる事をなし、之れを平素の楽みとなし居たり。座頭城早は止むなく後家と情を断つ場合となりしかば四郎左衛門を遺恨に思ひ、早速其の趣を領主へ訴へんものをと桃原院和尚と同道し、委細を述べしかば領主鳥居主膳正与力十五人を召捕に差向、名主忠市の助力を得て向ひしが四郎左衛門屈せず、種々魔術を行ひ千変万化捕手の者ば是れを見て捕ふる事能はずして引揚げたり。然れども四郎左衛門は我が天運玆に尽きたるなれば自首し、寛永二十年高遠山田河原に於て磔刑に処せられたり。而して四郎左衛門には此の時三歳の男子あり、是れ迚ても余族なれば死刑に処せらるゝ筈の處、蔵沢寺和尚乾安音貞憐みて引取り仏門に入れたり。至つて発明者にして終に其寺を継ぎしが、又親の気象を請け得て魔法存行ひ遂に蔵沢寺を退去せざるべからざるに至り、轉じて山寺村常円寺住職となり世人の信用も深かりき。されど玆にても魔法を行ひ遂に又領主鳥居侯の手に召捕られ、父と同じく山田河原にて死刑に処せられたりと伝はれり。

  四郎左衛門が「逆さづり」の刑により処刑されたのが寛永20年(1643)のこと。駒ヶ根市中沢中曽倉の神田久保の田圃の土手の脇に「壽山良昌善男 壽岳妙昌善女」と刻んだ小さな自然石の墓碑がありますが、これが四郎左衛門夫婦の墓碑ということです。
 四郎左衛門が処刑された後、残された女性は他家に嫁ぎましたが、二人の間には当時3歳になる男の子(後の丹瑞)がおりました。この子は長じて、中沢村の蔵澤寺という曹洞宗の寺に入り、僧として修行の道に入りました。のち、蔵澤寺の住職に、さらに転じて、今伊那市にある常円寺の住職になったのですが、「女犯」の罪で山寺村(現伊那市山寺)の河原で「磔」の刑で命を落としました。元禄10年(1697)閏2月4日のこと、丹瑞 60歳の時でした。60歳で「女犯」の罪というのも理解に苦しむのですが、大方はキリシタンとして処刑された、というのが本当のところだと思います。
 蔵澤寺の歴代住職の墓地に丹瑞の墓碑があります。ちなみに、蔵澤寺と常円寺の歴代住職の名前からは、丹瑞の名前は削除されているようです。
 

2014年12月2日火曜日

辰野町上平出の猫神様

 辰野町上平出、ほたる童謡公園県道14号線を挟んでほぼ反対側に、いくつか石碑が並んでいるところがあります。近くに高徳寺いうお寺があり、その境内に「蚕玉神社」の社がある、というので出掛ける途中、ふと立ち寄りました。ひときわ大きな「清正公の碑」という石碑の奥のほうに、馬頭観世音などとともに置かれている、何やら動物が彫られているような石に目が留まりました。
 どう見ても、「猫」ですよね。
 このあたり、以前は養蚕が盛んだったところです。蚕の天敵は鼠。鼠の天敵は猫。そこで、猫の登場です。
 これは、鼠を狙っている猫の姿でしょうか。背中のあたりの毛ばたちが伝わってきそうです。

2014年11月14日金曜日

箕輪町の双体道祖神⑤ (長岡大門・新田)

今はダムの湖底に沈む長岡新田。周辺が整備され紅葉の名所とも知られるようになりましたが、その長岡新田の集落の氏神様、新田神社の下に老夫婦(?)が手をつないでいるような姿の双体道祖神があります。竹入弘元氏は、
「二人はその土地の人々即ち建立者自体をモデルにしたかに見える。朴訥そのものの働き者といった感じの男。ややほっそり顔に、優しさ、芯の強さを秘めた女。晴れの日を迎えて微笑をうかべている二人ですが、苛酷な労働、厳しい生活のかげがにじんでおり、苦難に耐え抜いて来た生活者の深い人間味を感じます。」と、 評しておりました。言いえて妙だと思います。

  こちらの双体道祖神。上の男女とは好対照の御顔をしていました。傍らに明治29年銘の文字道祖神があります。
長岡から長岡ダムへと続く道、県道442号線。長岡集落から左カーブしながら一旦下り道になるのですが、そのあたりが大門という小字の場所。そこに明治33年銘の馬頭観世音碑と並んで建っていました。「願主子年女」と刻まれています。女性はふくよかな面立ちのお顔です。

2014年10月16日木曜日

駒ヶ根市の双体道祖神③ (中沢)

本曽倉 地域の集会所横石垣の上に蛇神様の文字碑とともに置かれていました。享保2年(1717)本曽倉村中、とあります。
   中沢の一番奥の集落。以前は駒ヶ根カントリークラブというゴルフ場があったのですが、今は営業しているのかどうか。
  ともあれ、この集落の神社の石段の左脇に馬頭観音などとともに置かれています。
中曽倉に二体あるうちの一体。銘はありません。文化8年(1811)銘の月待塔とともに置かれていました。
中曽倉のもう一体。「八木」というあたり。山肌に如意輪観音や文字塔などとともに置かれていました。
中山 竹の沢に至る「旧道」を登ったところの石垣に挟まれる形で置かれています。 天保3年(1832)のものだそうです。

下割の協議所の庭にあります。「子連れ」の道祖神として慕われているようです。何とも簡素な表現です。
菅沼の常秀院というお寺の参道にある双対道祖神です。向かって左の神様の手に、何か丸いものを持たされています。
中割 大津渡橋の近くの田圃の土手に建てられています。南に背を向けているので、どうしても逆光になります。

2014年10月13日月曜日

ジュリー沢田研二 内山奈月

  団塊の世代だから、「ジュリー」は少しぐらいは知っています。でも、どんな人なのかは、少し世代が下る妻に聞かなければわかりません。
  「内山奈月」さん……。 どんな人なのか全く知りません。ただ、三ケ月前、AMAZONでクルクル見ていたら、『憲法主義』という書名が目に入り、著者(?)の一人として名前が挙がっており、その紹介記事に、人気アイドルグループ「AKB48」の一員である、という記述があり、AKB48というグループの存在とともに、件の人の名前を知ることが出来ました。
  たまたま、YOUTUBEを見ていたら、ジュリーの「我が窮状」というビデオに行き当たりました。
  私は、天皇陛下をこよなく愛する右翼思想の持ち主です。でも、少なからず、太平洋戦争の暗部に生きてきたヒトの一人でもあります。
  思うのは、本当に『日本国憲法』をしっかり読んでみようよ!! と、いうことです。ああでもない、こうでもない、と、言うのは、それからでも良いのではないのかな… と、思いますが。


2014年7月25日金曜日

役行者像(箕輪町八乙女)

長野県上伊那郡箕輪町。西部広域道路を走っていると八乙女という集落に至ります。その集落の西のはずれのあたりに、果樹園を背にして少しの平地があります。ここにはかつて御堂があったそうですが今は何もありませんが、ここに立派な役行者の石造が建っています。
  右手に鉄の錫杖、 左手に経巻を持ち高下駄を履き岩座に腰を掛けている姿。角柱には「奉納大乗妙典日本廻国明和四丁亥年」とあって、西暦1767年の建立。







  足下の台座には二匹の鬼の姿。前鬼・後鬼という夫婦の鬼、役行者の弟子ともいわれています。  

2014年7月3日木曜日

六地蔵(石川県小松市 市営墓地)

亡父は、石川県小松市の生まれ。立命館に入学したところで学徒動員により満州に送られた。そして敗戦。衛生兵であった父はそのまま中国に留められた。医療技術者として八路軍の病院に勤務した。孫呉もしくは北安というところである。
  昭和27年(1952)7月に病気がちであった父は他界した。私が4歳の時である。その1年後に母と二人で引き揚げてきた。
  折しも、閣議決定により日本が戦争を行使できるよう憲法の解釈を変えた日、20数年ぶりに父の墓に詣でた。父が死んで62年の歳月が経った。
  もしかしたら、黒龍江の凍土になっていたかもしれない。あるいは、日本人などという族生をとうに捨てていなければ生きていけなかったかもしれない。そんなことを知る由もない人々が勝手に英知の象徴である憲法の解釈を変えてしまう………
  帰りがけに車を止めていた脇の草むらを見ると、六地蔵がこちらを向いていた。その脇に、完全に草むらに隠れるようにもう一体の石仏………
  風化しても、石仏は百年二百年、あるいはそれ以上にこの世の中に残り、人の営みを見続けていく。あと10年・20年後の日本はどうなっているのだろう。

2014年6月7日土曜日

軍兎アンゴラ供養碑と蚕玉神社(駒ケ根市)


駒ヶ根市の福岡という地籍に「馬見塚公園」という、市民の憩いの場があります。池があり、その畔で水鳥が人影も気にせずのんびりと寛ぐような長閑な場所です。
  その池の近くに「成田不動尊」・「蚕玉神」それと「山の神」との三者を祀る社(?)がありますが、さらに少し離れたところに件の「軍兎アンゴラ供養碑」があります。





  建設は昭和17年5月。「赤穂組合」というところが建設の母体のようです。
  碑をよく見ると「軍兎」の「軍」の文字の部分が、なにかセメントようのもので意図的に埋めてあります。
  『駒ヶ根市誌』(畜産 二養兎)には、陸海軍の要請により兎毛皮のさらに一層の納入を図るよう示達あり、農家組合としてそれに応じる、旨の記述がある。
  毛皮として供出された兎の霊を供養する碑です。





  

    馬見塚公園内の堂
  堂内
向かって左から「山の神」・「成田不動尊」・「蚕玉神社」
馬見塚の蚕玉神社の祭礼について『伊那谷の石仏』に「戦前は福岡・小町屋・赤須の三耕地交代で代番をしていたが、今は福岡だけで続けている。蚕の神様だが、村の春祭でもあり、親戚の客も来る。蚕の盛んだった大正頃は自転車競争などもして、人出は三
万とも五万とも言われた。戦後少なくなったが(云々)」の記述がある。
  5月3日が祭礼だというので、来年は様子を見に行こうかな…


堂左側の「蚕玉神」の碑。


2014年5月8日木曜日

『日本国憲法』の本

  「季節の拾い物」 というのも変な話ですが、折から5月は憲法記念日もあり、憲法を改正するとかしないとか、解釈を変更するとかしないとか・・・・・・・
  昭和21年(1946)11月3日に公布され、翌22年5月3日に施行された「日本国憲法」。
  ああしよう、こうしよう・・・・・いや、ああしてはいけない、こうしてもいけない・・・・・ という話はかまびすしいが、まずは自分なりに憲法全文を読んでみよう、と思い立って手にしたのがこの3冊です。
一冊目は、小学館が1982年に出版した、写楽版『日本国憲法』。文字も大きく、老眼世代の私には程よい本ですが、すべての漢字にルビが降ってあるというのが煩わしく感じられました。
  とはいっても、憲法を読もう・・・ と最初に思い立って手にした、思い入れのある本です。
  付録に? 「大日本帝国憲法」と、英訳「日本国憲法」を収録してあります。
あのパパとニャロメの絵とくれば、赤塚不二夫。その赤塚不二夫と憲法学者である永井憲一の「日本国憲法」。
  巻末資料として、「日本国憲法」「教育基本法」それと大日本帝国憲法」を収録しています。
こちらは、今年2014年2月1日に出版されたばかりのもの。「聴く」とあるようにCD-R付の本。小林麻耶さんの朗読が、耳に心地よく聞こえます。バックに流れる音楽もうるさくなく、車の中で聞いても煩わしさはありません。










  とにかくすごい!! 『日本国憲法』
ただ者ではありません。読んでみる価値はあると思います。評価はそれからでも遅くはありません。

2014年4月15日火曜日

タカトオコヒガンザクラ 2014年

私の次の休日は予報によると雨らしい、というので、あまり期待もせず出かけました。というのは、時期的にまだ少し早いかな、というのと、ここ数年交差やら何やらで空の色があまり良くなく、桜の見栄えが悪かったからです。
  ところが、あんに相違して空だけは、ここ数年ではとりあえず納得することができました。あとは桜がもう少し咲いていたらなあ・・・・
  中央アルプスも、久しぶりにきれいに見えました。