2011年8月31日水曜日

伊那の蚕神様-2

伊那市美篶南割
  伊那の中心街から国道361号線を高遠の向かっていくと、南割という集落があります。その集落の中ほど、国道沿いに15基ほどの石造物群があります。最も古いのは元文二年二月銘のある「百所観音」順拝の碑。石佛石神像は三体。



  蚕神像 右手に桑の枝を持っているが、その他は不明。













不明の菩薩像。像の二か所くらいで損壊し補修の跡があり、そのため文字がいっそう判読しづらくなっているが、左手の横に「千部」という文字が読み取れる。











観音像。銘に宝暦十三年十二月とあり、「奉供養西国巡礼」「願主十一人」とある。

2011年8月27日土曜日

線彫白衣観音像(伊那市高遠小原)

  「エンヤ~ 会津磐梯山は宝の山よ」で始まる民謡[会津磐梯山]。囃子ことば
「おはら庄助さん なんで身上潰した
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上潰した
ハァ もっともだ もっともだ」
伊那市高遠町小原。南北朝のころは信濃宮宗良親王所領であったといわれているところであるが、その小原のはずれ三軒屋という所に「丸山城(通称小原城」の城跡がある。城跡といっても平の所はすでに開鑿されて田あるいは畑となり判然としないが、それでも周囲を見ると塁の跡が残っている。
この丸山城、明徳の頃小原太輔という豪族が初めて城を築いたという。その後、小原丹後守正継は武田勝頼の家臣として従い、勝頼夫人の介錯をした後、天目山において勝頼に殉死した。その四代の孫庄右衛門光俊は高遠城主保科氏に仕えていたが、城主保科正之の最上移封に従い、一族ことごとくを従え高遠を去って行った。さらに、保科氏の会津若松への転封により、小原氏一族もこれに従い、会津に移っていったという。はやし言葉に出てくる「小原庄助さん」は、その後裔である、と、この辺りの人々には信じられている。
その、丸山城(小原城)跡の土塁近くに、明治12年3月に建てられた「小原丹後守墓」があり、その石碑に白衣観音の線彫りがある。近くに説明板があり、小原丹後の守は庄助さんの6代の祖であるという。

2011年8月14日日曜日

セミの夫婦

7月28日に、おじい様になりました。我が家に迎えパパ・ママ・ババ様がてんやわんやしているのを横目に見ながら、うろうろしているのですが、いや~ 可愛くて可愛くてたまりません。そんなことで、しばらくは家にいて、写真を撮りに行くどころではありません。
さて、今朝出勤しようと車のドアを開けようとしたところ、運転席側のドアの桟に何かへばりついているではありませんか。一瞬、腰が引けたのですが、よく見ると、蝉が足をゴムに引っ掛け体をささえ抱き合っていました。
というわけで、自然の営みを一枚。

2011年8月7日日曜日

伊那の蚕神様-1

蚕神碑は、養蚕が盛んになった江戸時代から明治・大正頃にかけ建てられましたが、「蚕神」とか「蚕玉大神」などの文字碑と、手に桑の枝や繭を持った女神像などがあります。
長谷中尾の才の神に建てられたいる蚕神は、手に桑の枝を持つ立ち姿の女神像です。また、同じ場所に甲州型の球形の道祖神もあります。








お顔立ちのすっきりした、美しいお姿です。