「エンヤ~ 会津磐梯山は宝の山よ」で始まる民謡[会津磐梯山]。囃子ことば
「おはら庄助さん なんで身上潰した
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上潰した
ハァ もっともだ もっともだ」
伊那市高遠町小原。南北朝のころは信濃宮宗良親王所領であったといわれているところであるが、その小原のはずれ三軒屋という所に「丸山城(通称小原城」の城跡がある。城跡といっても平の所はすでに開鑿されて田あるいは畑となり判然としないが、それでも周囲を見ると塁の跡が残っている。
この丸山城、明徳の頃小原太輔という豪族が初めて城を築いたという。その後、小原丹後守正継は武田勝頼の家臣として従い、勝頼夫人の介錯をした後、天目山において勝頼に殉死した。その四代の孫庄右衛門光俊は高遠城主保科氏に仕えていたが、城主保科正之の最上移封に従い、一族ことごとくを従え高遠を去って行った。さらに、保科氏の会津若松への転封により、小原氏一族もこれに従い、会津に移っていったという。はやし言葉に出てくる「小原庄助さん」は、その後裔である、と、この辺りの人々には信じられている。
その、丸山城(小原城)跡の土塁近くに、明治12年3月に建てられた「小原丹後守墓」があり、その石碑に白衣観音の線彫りがある。近くに説明板があり、小原丹後の守は庄助さんの6代の祖であるという。
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