2011年12月31日土曜日

熊野寺の石仏

長野県宮田村、中央高速を東京方面に向かって走っていると道の西下に小さな堂と、何やら由来を書いてあるような看板が見えます。狭い一般道を、記憶を頼りに走っていると、何やらそれと思しき所に着きました。「熊野寺」あるいは「熊野権現」ともいうらしいのですが、鍵のかけられている堂の中を覗くと、上段に厨子が二つ、下段に五輪塔が一基見えました。参道には石仏が数体、道をはさんで左側に、墓標とも取れる石碑が数基あります。




堂の内部。ガラス越しに内蔵のストロボを焚きました。手前が五輪塔。









如意輪観音。頭上に十四番と刻まれています。西国三十三所観音霊場の十四番、三井寺園城寺は如意輪観音様だそうです。享和3年(1803)のものだそうです。












何とも不思議な石像です。右手に持っているのは木の枝のような気もします。お顔も丸顔で、不遜ではありますがユーモラスさを醸しています。「蚕神」の様でもあるのですが・・・・・。

2011年12月4日日曜日

青面金剛像(伊那市長谷溝口)

今は伊那市長谷溝口に移されていますが、かつては浦という集落の最奥部にある阿弥陀堂の庭に双体道祖神と一緒に建てられていたものだそうです。それを、数年前中学の校長先生が移した、と、地元のお婆さんが説明してくれました。二体とも、建立年月等は不明です。
双体道祖神については、こちらをご覧ください。
http://www17.plala.or.jp/jincya/hasedosojin.html


2011年11月16日水曜日

咳の地蔵様二題

 こちら、伊那市高遠町の香福寺というお寺の本堂への登り口にある、「咳の地蔵堂」内のお地蔵様。享和2年(1802)に蛙鳴という人が書いた説明文があるそうです。その中に「せき症の者は必ず南蛮を奉り祈願を成せば忽ち報い給ふ(堂前の説明板より)」とあるそうです。






   次は、上伊那郡飯島町田切にある「関の地蔵尊」。昔武田信玄が伊那地方を制圧したときに、この地に関所を設けたから「関」というのだそうです。「セキ」だから咳を治してくれるお地蔵様、ということになったそうです。  姿が普通のお地蔵さまとだいぶ異なるので、近くにマリア像に似た観音像があることから、「マリア地蔵では」(雑誌『伊那路』昭和50年)と言われたこともありました。が、実はこの石像は地蔵様ではない、という話が『飯島町の石造文化財』という本に載っていて面白い。江戸時代の木喰行者、木喰但唱がモデルとのこと。寛文10年(1670)の建立だそうです。

安曇野の双体道祖神(5)

  何かついでがなければ行けない、中途半端な距離に安曇野は位置します。したがって、一度におさめることができる枚数も限られてしまいます。
さて、国道147号線「本吉」交差点を東に歩きます。吉野神社、県立安曇野高校の校舎を過ぎてしばらく、右側に赤い屋根のお堂と立派な銀杏の大木が見えてきました。標識に「吉野荒井堂の大銀杏」「安曇野市指定文化財」とあります。
  そのお堂の東向いの四辻にお目当ての双体道祖神がありました。裏に銘があり、天保14年(1843)の建立であることがわかります。











というわけで、今日の収穫に喜び、カメラを構えた人も来たので、とりあえず来た道を戻ることにし、しばらく歩いたところで、田舎でも珍しい小さな郵便局に出会いました。民家の離れのような特定郵便局です。何となく記念に一枚・・・・・

2011年11月5日土曜日

役行者像(長野県上伊那郡宮田村)

  何度も何度も通っている道である。ところが見過ごしてしまう。
「伊那中部広域農道」と呼んでいる道。辰野町から飯田市へとつながる、天竜川の西側山麓をぬうように走る道。その道の宮田村と駒ケ根市の境のあたりに、十数基の石碑群があり、ひときわ大きくその像がある。高さ約2m程の自然石を刳りぬいた祠。その中に「役行者」の座像が収められている。
像は寛政8年(1796)、祠は文政13年(1830)の建立とのこと(『宮田村の石造文化財』)。
行者像、荒く削ってあるのか、持物は不明。頭部及び顔立ちはきれいに残っています。駒ケ岳を中心とする山岳信仰の遺物です。

2011年10月17日月曜日

伊那の蚕神様-4

伊那市福島の観音堂に、彩色を施された立派な蚕神様があるというので、出かけました。県道をそれ、集落をいったん抜け、さらに集落に入りかけると二間×三間位のお堂がありました。お堂の外に大小数個の石碑、像らしきものは見当たりません。幸い、堂の南面にガラス窓があります。中を覗いてみると、向かって西側に件の石像がありました。馬に乗る蚕神です。ガラス窓越しにストロボを焚きました。様子はわかってもらえると思います。
明治17年のものだそうです。






次に向かったのは、野底という所の野底神社の境内。神社向かって左側に新調の祠があり、蚕神が安置されています。建立年不明。












車に戻る途中、ふと見上げると桜が咲いていました。根元に「十月桜」の立札。年に数度咲く「四季桜」に亜種でしょうか。珍しいので写してきました。











ちょうど県道19号線沿いでもあるので、上牧という集落の氏神である八幡社に立ち寄りました。これも社殿向かって左に新調の祠があり、傍らに説明板がありました。大正年代に有志により祀られた、とあります。祠は平成11年の再建、とありました。

2011年10月14日金曜日

辰野町の双体道祖神(5)

辰野町平出下町、法性神社へと続く道脇に、石碑・石仏群の中にたっています。上部と下部が欠損していますが、日・月が残っているのがわかります。享和4年(1804)の建立。男神と女神が手を握り合っています。











平出旭町の二十二夜様にある二体のうちの一つ。上部が欠損して有りません。風化も激しく、僅かに体の部分が浮き出ているくらいです。












同じく平出旭町の二十二夜様にある二体のうちのもう一体。こちらは天明6年(1786)の建立。辰野の町部にある双体道祖神のうち、建立年がわかるものの中では、もっとも古いものかもしれません。男神女神が肩を組み手を握り合っています。光背上部に御幣が刻まれております。

2011年10月3日月曜日

伊那の蚕神様-3

中央道伊那ICを下りて右にとり登ることしばし、大萱交差点の斜め右角のスポーツ広場の一角、少し小高くなったところに間口一間半位の覆屋があり、その中に木造の祠がある。覗くと石像が二体安置されています。覆屋にもしっかりした格子戸がはめ込まれており、さらに中の祠にも格子がありました。かつて、よほど石仏の盗難が多かったようです。









その中の一体には舟形の光背があり、もう一体には光背はありません。『伊那市石造文化財』によると向かって右丸彫りの方が安政5年(1858)8月、向かって左光背のある方が安政6年(1859)2月の銘があるとのこと。井伊直弼が大老に就任したのが安政5年4月、安政の大獄が始まるのが同年の9月、大変な嵐が吹き荒れているときでした。









残念ながら、二重の格子があって女神様のお姿を間近に見ることができません。件の『伊那市石造文化財』所収の写真のコピーで我慢しました。昭和55年(1980)6月15日撮、とありました。覆屋はまだできていなかったのかもしれません。また、今とは像の配置も異なります。文化財として整理する頃の写真かもしれません。

2011年9月25日日曜日

安曇野の双体道祖神(4)

  7月に生まれた孫の初宮参り。8月はお盆月なのでお祝い事は控える、という習慣もありまた余りの暑さなので、ということもあり、今日穂高神社にお参りしました。
受け付けを済ませ、数組の家族とぞろぞろと拝殿に入るその入り口脇に、像高90cm位か木彫りの双体道祖神がありました。









その穂高神社の神楽殿の上で、鶏が遊んでいました。話によると放し飼いになっているそうです。いろいろな説があるようですが、神様と鶏はたいへん縁があるようです。
昔々、天照大御神が天の岩屋戸にお隠れになったとき、八百万の神が天の安の河原に集まって「常世の長鳴鳥を集いて鳴かしめた」(『古事記』)ことから、神社に鶏を放し飼いにしたり、あるいは、時を告げなくなった鶏を、神社に放したりしたそうです(『歴史のなかの江戸時代』)。
この鶏も、神の御使いに相違ありません(?)。

2011年8月31日水曜日

伊那の蚕神様-2

伊那市美篶南割
  伊那の中心街から国道361号線を高遠の向かっていくと、南割という集落があります。その集落の中ほど、国道沿いに15基ほどの石造物群があります。最も古いのは元文二年二月銘のある「百所観音」順拝の碑。石佛石神像は三体。



  蚕神像 右手に桑の枝を持っているが、その他は不明。













不明の菩薩像。像の二か所くらいで損壊し補修の跡があり、そのため文字がいっそう判読しづらくなっているが、左手の横に「千部」という文字が読み取れる。











観音像。銘に宝暦十三年十二月とあり、「奉供養西国巡礼」「願主十一人」とある。

2011年8月27日土曜日

線彫白衣観音像(伊那市高遠小原)

  「エンヤ~ 会津磐梯山は宝の山よ」で始まる民謡[会津磐梯山]。囃子ことば
「おはら庄助さん なんで身上潰した
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上潰した
ハァ もっともだ もっともだ」
伊那市高遠町小原。南北朝のころは信濃宮宗良親王所領であったといわれているところであるが、その小原のはずれ三軒屋という所に「丸山城(通称小原城」の城跡がある。城跡といっても平の所はすでに開鑿されて田あるいは畑となり判然としないが、それでも周囲を見ると塁の跡が残っている。
この丸山城、明徳の頃小原太輔という豪族が初めて城を築いたという。その後、小原丹後守正継は武田勝頼の家臣として従い、勝頼夫人の介錯をした後、天目山において勝頼に殉死した。その四代の孫庄右衛門光俊は高遠城主保科氏に仕えていたが、城主保科正之の最上移封に従い、一族ことごとくを従え高遠を去って行った。さらに、保科氏の会津若松への転封により、小原氏一族もこれに従い、会津に移っていったという。はやし言葉に出てくる「小原庄助さん」は、その後裔である、と、この辺りの人々には信じられている。
その、丸山城(小原城)跡の土塁近くに、明治12年3月に建てられた「小原丹後守墓」があり、その石碑に白衣観音の線彫りがある。近くに説明板があり、小原丹後の守は庄助さんの6代の祖であるという。

2011年8月14日日曜日

セミの夫婦

7月28日に、おじい様になりました。我が家に迎えパパ・ママ・ババ様がてんやわんやしているのを横目に見ながら、うろうろしているのですが、いや~ 可愛くて可愛くてたまりません。そんなことで、しばらくは家にいて、写真を撮りに行くどころではありません。
さて、今朝出勤しようと車のドアを開けようとしたところ、運転席側のドアの桟に何かへばりついているではありませんか。一瞬、腰が引けたのですが、よく見ると、蝉が足をゴムに引っ掛け体をささえ抱き合っていました。
というわけで、自然の営みを一枚。

2011年8月7日日曜日

伊那の蚕神様-1

蚕神碑は、養蚕が盛んになった江戸時代から明治・大正頃にかけ建てられましたが、「蚕神」とか「蚕玉大神」などの文字碑と、手に桑の枝や繭を持った女神像などがあります。
長谷中尾の才の神に建てられたいる蚕神は、手に桑の枝を持つ立ち姿の女神像です。また、同じ場所に甲州型の球形の道祖神もあります。








お顔立ちのすっきりした、美しいお姿です。

2011年7月26日火曜日

深妙寺の三十三観音(3)

23番 瑠璃観音 手に香炉を持ち、水に浮かぶ蓮華の上に立つお姿。













24番 多羅尊観音 雲に乗り右手は衣服の中に入れて胸の下あたりに置き、左手をその下に置く。慈母神として崇められた。












25番 蛤蜊観音 蛤の上に乗るお姿。













26番 六時観音 手に梵篋を持つ。













27番 普悲観音 両手を法衣に隠して前にたれ、丘の上に立つお姿。













28番 馬郎婦観音 魚を売る美女の姿に示現した観音様。













29番 合掌観音













30番 一如観音 雲に乗り、雷を制するお姿です。













31番 不二観音 両手を垂れて前で重ね、蓮の葉に乗り水上に浮かぶお姿です。












32番 持蓮観音 両手に蓮華を持ち、蓮の葉の上に乗るお姿です。













33番 灑水観音 右手に瓶を持ち、水を灌ぐお姿です。













以上、伊那市西春近深妙寺の三十三観世音菩薩の石像です。

深妙寺の三十三観音(2)

12番 水月観音 月光の照らす海に浮かぶ一枚の蓮華の葉の上に乗り、水に映った月を見るお姿だそうです。












13番 一葉観音 蓮の花びらに座り、左膝を立てながら水の上に浮かんでいるお姿だそうです。












14番 青頚観音 この観音を念ずれば、あらゆる怖畏や厄難から離脱することができるそうです。












15番 威徳観音 左手に蓮華を持ち、岩の上にお座りになっているお姿です。












16番 延命観音 この観音様を念ずれば、呪詛や毒薬などからの害を除き延命することができるそうです。水上の岩に座り、右手で頬を支えているお姿です。











17番 衆宝観音 羅刹の難を救います。右手を地に付け、左手を立てた膝の上においています。












18番 岩戸観音 毒蛇の住む岩戸に坐るお姿だそうです。













19番 能靜観音 岩の上にたたずみ、海に向かい静寂の相を現わしているお姿だそうです。












20番 阿耨観音 この観音を一心に念ずれば、水難の禍から救われるそうです。












21番 阿摩提観音 













22番 葉衣観音