2015年11月25日水曜日

満州引揚物故者慰霊碑(長野県箕輪町 萱野高原)

  かつて中国の東北部に、日本は「満州国」という国を作りました。その満州国に国策により沢山の日本人が入植しました。長野県の上伊那地域からも、3,000人近くの人が入植しました。しかし、日本の敗戦により多くの人が、満州に地に取り残され、亡くなりました。
  長野県上伊那郡箕輪町の萱野高原。信州かやの山荘という宿泊施設の東側、林の中に「満州引揚物故者慰霊碑」という石碑があります。昭和42年(1967)5月14日に除幕されたといいます。2,246柱の霊がまつられている、とのことです。
  


ここからは、写真のように上伊那のほぼ全域を見渡すことが出来ます。

2015年10月17日土曜日

産泰宮(伊那市手良)

  前橋市の東部に産泰神社という神社があるそうです。あるそうです、というのは、私はまだお参りに行ったことがありませんので・・・・・。が、その名の通り安産・子育ての神様として、遠く伊那の地にも名前がとどろいていたのでしょう。
  その産泰神社を勧進した「産泰宮」なる社が、この伊那市手良の地籍に二社あります。
  一つは、蟹沢という集落の百体庚申の上に隣接する「産泰宮」。写真の通り独立した構えの御堂です。
  右の写真は堂内。 御覧のように神様とお地蔵さまが並んで祀られています。
   



 
  もう一つは、中坪という集落の神社の拝殿脇に併設された「産泰宮」。こちらも、中をのぞくと神様と地蔵様が並んで祀られていました。
  2012年、近所の家から出火した火災により類焼の被害を受け、地域の人々の努力により再建しましたが、厨子・木製の祠は焦げたままの状態で祀られていました。写真ではお地蔵様のお顔がよくわからないので、『手良区誌』に掲載されている写真を引用させていただきました。
  この中坪八幡社の社域には、隠れキリシタンの遺物とも目される石祠もあります(前記『区誌』による。よろしければ下記までどうぞ)
  http://www1.inacatv.ne.jp/jsenpou/nakatubohatimansya.html

2015年4月24日金曜日

桜本地蔵尊(伊那市羽広 仲仙寺)

  文政13年(1830)の春頃、というからおよそ200年くらい前、伊那を流れる天竜川を利用して「通船」という物流事業が開始されたという(『上伊那誌』歴史編による)。この事業は、休船等の紆余曲折があったものの、明治30年代までは続けられていたようです。その船着き場があったといわれている場所が、現伊那市坂下の入舟という所。
  さて、伊那市羽広に仲仙寺という天台宗の寺院があり、本来60年に一度の秘仏本尊の御開帳を、創建1,200年の記念年に当たる今年に日を限って特別御開帳を行う、というので妻と同道で出かけました。
  山門手前に地蔵堂があり、以前は目にしなかった急ごしらえの(ラミネート作りの)案内板が設置してありました。「要旨」とあり、以下の文章が記されていました。
  伊那町の入船の舟問屋に、みめうるわしい生まれつき口のきけない”おなみ”という女がいました。女が12歳の時、母の枕元に定期的に参拝するようにとのお告げがありました。町からお寺まで54町、翌朝から母娘連れだって1日も欠かすことなく参拝。満願の日、強風と小雪が吹き付け身が凍えるばかり、娘が「かあさん寒いよう」と母の体にしがみついた。母は「お前、今何と言った。」と女を抱きしめ、お地蔵様の前に泣き伏した。舟問屋ではお地蔵さまのおかげと感謝し、お地蔵さまも寒くないようにと三河木綿の着物に厚い綿を入れて作りきせたという
  見ると、お地蔵さまが二体、一体は石造の「桜本地蔵尊」、もう一体はそれより小ぶりで木造の「青空地蔵尊」と命名されていました。

2015年4月8日水曜日

タカトオコヒガンザクラ2015-2

目が覚め、肌寒い朝だなア~
と、思いながらカーテンを開けると、なんと、一面の雪景色。
  通勤の途中、車の中から桜を見ると、花びらに雪が重そうにのしかかっていました。せっかく見ごろを迎えたのに……
  と、いうわけで、今朝の近くの桜を写しました。

2015年4月2日木曜日

タカトオコヒガンザクラ2015

この2・3日の陽気で、近所のタカトオコヒガンザクラが開花しました。
  今年も、悩ましい季節の訪れです。といって、決して桜の花が嫌いなわけではありませんが……

  ゆっくり 花見をしていられないからです。
  桜 大好きです。

2015年2月11日水曜日

蚕玉神社(辰野町平出 高徳寺)

  辰野町平出に妙雲山高徳寺という真言宗のお寺があります。このお寺の境内地に「蚕玉神社」があるというので、出かけました。お寺につきまず目立つのが「七観音」の石仏(背景の民家はお寺とは関係ありません)。件の蚕玉神社は、お寺を右側に辿って行くと「常楽庵」というのがあり、たまたま御住職と奥様と思われる方がいらっしゃったので、許可をいただいて神社へと向かいました。
  『辰野町誌』によると、蚕玉神社は明治27-30年頃に千葉県筑波郡神郡村(誌の記述のまま)の蚕影山蚕玉大明神の出張所を平出にお招きし新築した、とあります。
  ただ、残念なことに、写真で見る通り覆い屋もなく、長年風雨にさらされてきたので、かなり激しく傷んでおります。それでも、欅で作られた社殿は、蚕玉神社としてはこの地域(長野県上伊那地域)では唯一のものではないかと思います。それだけに、せめて覆い屋を作って保存すべきだと思いました。

  社殿上部の装飾です。


社殿左側の装飾。 桑の樹には果実もついています。家の中には繭。さらに俵のようなものも配置されています。
   社殿右側の装飾。桑を摘む人の姿。返す返すも、風雨にさらされ傷んでいる姿が悔やまれます。