2010年10月29日金曜日

恵比寿・大黒

国道153号線箕輪バイパスを南下、新竜神橋を渡り伊那市に入ってすぐのところに「柵立」と呼ばれるところがあります。地籍は「野底」という所です。そのいわれについては、案内板があります。







案内板です。









さて、その柵立の近く棚沢川に架かる橋を「ふるさと橋」と呼びますが、見事な大黒様と恵比寿様が橋の擬宝珠代わりの飾りに飾られています。それぞれ3体づつ計6体。
よく探すと車を止めるところもあります。また、上の写真の中央あたりに句碑もありました。

箕輪田中城

国道153号線箕輪バイパスを走っていると、「田中城」という名前の交差点がありますが、かなり注意して見ているのですがそれらしき遺構がありません。
  そんなわけで、たまたま少し道を外し天竜川の堤防寄りに入ったところ、「田中城址」と刻んである石碑と、案内板がありました。



付近は、天竜川の河川の跡。田畑が広がっていたところに新しく道をつけ、郊外型パチンコ店やショッピングセンター、そして工場。件の城跡も工場の敷地になるところの一部をかろうじて残したに違いありません。土塁跡がわずかに残っていました。
『上伊那町村誌』には、次のような記述があります。

【田中箕輪城墟】東西三町南北三町、本村の内三日町の未申の方にあり。東は天龍川、其他三方は深入の沼田なり。昔時箕輪左馬介義房住之、嫡箕輪左街門尉義雄文安二年丑三月十六日卒。子孫箕輪左衙門尉義久、天文十三年武田信玄に降る。其子箕輪大膳義成、小笠原貞慶に随ひ、青柳峠の合戰に討死す。其養子を箕輪左衛門尉と云、天正十年七月武田勝(圖解在下段)頼滅亡の後保科越前守正直、徳川氏へ降る実効の手始に攻落し、是より飯田城附たり。毛利秀頼、菅沼定利居之同十八年青表紙検地あり、永銭を石高と改め慶長六丑年小笠原秀政の家人、田中箕輪城に移居す。其後慶長十七年木下へ遷移す。今外堀、木戸口、城安寺古町、町田等の地名のみ存せりo


  図は、『上伊那町村誌』所載の城跡図です。

5012年6月18日更新

2010年10月12日火曜日

庚申三猿

 金沢街道と杖突街道とが分岐するところに、諏訪社という小さな社がある。その社の鳥居下両脇に数基の石碑があるのだが、中に写真の庚申碑がある。
 碑面上部には七言の詩が、その下に文が刻まれているが、風化のため判読できない。
 詩は一書によると次のように刻まれているという。
   「七種妙供清浄身
    人々禁(欠)守庚申
    夜深陣々春風寒
    去々三尸何処隣」(『高遠の石仏』より)
    
 さらにその基部に三猿が刻まれているが、「見ざる、言わざる、聞かざる」の定番の形ではなく、少し変わった形である。

 向かって右の猿が手にしているのは果物でもあろうか。中央の猿は木の枝か何かの上に居り、左右とも地面に尻をついている。見ていると動きがあり、何とものどやかな彫刻ではある。

2010年10月1日金曜日

青面金剛像

 少し秋晴れなのと、気温も穏やかなのに誘われて、車で出かけました。メインは双対道祖神を撮ること。
 高遠の藤沢地区。御堂垣外という小字の諏訪社という社の入り口に坐す「青面金剛像」。
 一面四臂。右上手には宝珠、下手には蛇、左上手に鉾、左下手に羂索を持つ姿。二鶏三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)。上部に雲上の日月、光背には火炎らしきものも見える。
 延宝8年(1680)正月の銘。風雨に耐え、お顔立ちもかなりはっきりとした像である。