2011年3月28日月曜日

安曇野の双対道祖神(2)

  娘の帯祝いというので、久しぶりに安曇野に行ってきました。世は挙げて引っ越しシーズンなので、恐る恐る高速に乗りましたが、それほどでもなく、時間通りに着くことができました。
  昼食を取り、奥さんが「昼寝・・・」というので、一人カメラ片手に外に出ました。
   付近をうろつくこと暫し、なんと大きな道祖神。畳二畳分は優にあろうかとも思える程の文字道祖神です。弘化4年(1847)の建立。



   







  写真中央 双対道祖神。こちらは弘化3年(1846)の物。









さて、珍しいのがこの道祖神。「阿比留文字(神代文字だそうです)」という文字が刻まれているそうです。ガラス張りのケースの中に納まっていました。傍らに説明版があり、その字体を見ると何となくハングルのようにも見えました。









2011年3月24日木曜日

芭蕉句碑(紀元2601年)

長野県伊那市に「はびろ道」という、古くからの信仰の道がある。これは、旧伊那街道の坂下の辻から、西箕輪羽広にある仲仙寺という天台宗のお寺までの道であるが、基点から寺まで一丁ごとに丁観音あるいは丁石が道しるべとして置かれている。
よろしければ、 http://www17.plala.or.jp/jincya/habiromichi.html  をご覧ください。数日その石仏の写真を撮りに歩いていたのだが、36丁目の大萱というところに、写真のように見るからにどっしりとした芭蕉の句碑がありました。
句は 『奥の細道』の中の「野を横に馬引きむけよ時鳥」 というものです。句の意味は、「広い野を横切って時鳥が鋭い声で一声鳴いて飛び去った。その声のする方へ、馬の首を引き向けなさい!」とでもなりますか。
それはよいのですが、私が驚いたのは碑の裏の紀年が「紀元2601年」となっていたことです。西暦で言うと1941年です。
「紀元」というのは「皇紀」ともいい、神武天皇が即位された年を始めとしてその2600年目に当たる西暦1940年に国をあげて祝賀記念行事が行われました。世をあげて軍国の中にあった時代です。
ちなみに建立者は、「蕉風会」とありました。
1941年は、昭和16年。長引く日中戦争を引きずりながら、日本がアメリカ・イギリス・オランダに対して開戦を決定した年でもあります。
何とも考えさせられてしまいました。

2011年3月12日土曜日

馬頭観音(伊那市川北町)

伊那市山寺地籍に常円寺という禅寺があり、その寺下坂下の辻から羽広山仲仙寺へと続く「羽広道」という道がある。その道には一丁ごとに「丁石」という道しるべがあるのだが、観音様のお姿が刻まれています。その写真を撮るべく日差しもあったので出かけました。
丁石(丁観音)については後程まとめてHPに載せようと思っていますが、その10丁目に馬頭観音が置かれていました。高さ約40cm弱。明治25年(1892)12月とあります。
観音様のお顔も馬の顔も風化してわかりませんが、どことなく幼さが残るような風貌でした。

2011年3月4日金曜日

原爆の火と七福神

伊那市坂下 常圓寺というお寺は昔から境内の一部を市民に開放していて、春は桜、秋は月と集う人々で賑わっていました。丸山公園といいます。思い出して午前中行ってきました。
少々きつい坂を登ると駐車場があり、休憩中らしい営業マンの車なども見受けられます。その駐車場の脇に、原爆の灯がともされています。
中央が原爆の火、少し解りづらいので左上に挿入しておきました。
向かって右側の木が「原爆柳」と呼ばれる木です。
この原爆の灯のほぼ裏側に七福神があります。


原爆の火と七福神。取り合わせの妙に感心しました。

2011年3月1日火曜日

お雛様

今日は、わが夫婦の33回目の結婚記念日です。
結婚してしばらくの間は、子育てやら、仕事やら、で、結婚記念日といっても男の私にはさほど大きな感慨はなかった(こんなことを書くと、奥さんに叱られるかな・・・・・?)のですが・・・
定年も過ぎ、この頃になると一日一日が何か新鮮に思えるのです。

というわけで、ふと気が付くと、玄関の下駄箱の上に何やら置いてあるではありませんか。
よく見ると「お雛様」。
上の娘が置いていったものです。

小さな小さなお雛様ですが、春を感じるのには十分でした。

このあいだ新年を迎えた、と思っていたら、もう雛祭り。
60を過ぎると、本当に一日が短い。
だからこそ、一日一日が新鮮に感じられるのかもしれません。