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2021年4月7日水曜日

箕輪町大出の石幢(箕輪町大出 伊那街道と春日街道の辻)

  国道153号線、大出の信号機のすぐ脇に、伊那街道と春日街道とが交差する辻の跡があります。この辻に面して、馬頭観音を始め数多くの石仏・石碑が安置されている一角があります。石仏・石碑の中でほぼ半数近くが、馬頭観音の肉彫石像と文字碑ですが、ひっそりと、隠れるように、風化ししてはいるが、あきらかに六角形の各面に地蔵菩薩を彫った、石幢の名残と思われる石がありました。

それが左の写真です。少し離れた所に変った石が。下の写真がそれです。これに中台と笠・宝珠がそろえば完全なのですが・・・

 下の石柱が本来、何の目的で刻まれ、この場所に置かれているのかが不明ですが、『箕輪町の石造文化財』には何の記述もないのですが。



2017年1月1日日曜日

修行僧の石像?(伊那市高遠町 建福寺)

2017年の初詣り、ということで運動を兼ね近くの鉾持神社に出かけました。百数十段の石段を息を切らし、休み休み、一歩一歩踏みしめながら、初詣をすませました。
  帰路、お墓によって行こう、と思い立ち、途中より馬入れのような狭い道を辿って行くと、妻が「なんかあるよ!」というではありませんか。ふと見上げると、崖のくぼみと立ち木のため、今まで全く気付かなかった所に、お地蔵様のような石の像がありました。
胸元に笠を持っています。残念なことに、一度落下したためか首のところが損傷しています。顔も風化していてはっきりしませんが、目と鼻は何とか判ります。場所は、建福寺という寺院の墓地を背にして、鉾持神社の参道の石段の方を向いています。
  誰が何のためにこの場所に立てたのかわかりませんが、想像を搔き立てられる石像です。

2016年12月4日日曜日

六地蔵尊(伊那市長谷溝口)

伊那市長谷溝口の尾田屋という集落の南の辻。十数個の石仏・石碑の中央に置かれているのが、この六地蔵の像です。高さ40cm弱、幅35㎝程の石に六体のお地蔵さまが彫られています。上部に刻まれた「為先亡孩子菩提」の文字。
  「孩子」。中国語では「子供」とか「児童」とかの意(『中日辞典』小学館)。『広漢和』では、「ニ、三歳の小児。ちのみご。みどりご。」とあります。
  戒名では、概ね2・3歳で亡くなった子供につけるようです(Wikipediaによる)。
  道端の小さなちいさな六地蔵です。
  

2012年1月27日金曜日

不動様(伊那市上牧)

   県道19号線「上牧中部」信号を山手に入ってすぐ、四つ辻があり、之から上り坂になる右手の角に石仏・石碑が並んでいる中に一際目立つ不動様があります。高さ約1m半くらい、右手に剣、左手には索、天保12年(1841)建立とのこと。
   失礼ではありますが、この辺りの古くからお住まいの地元人じもとびとのような顔立ち。火炎の光背が刻まれてはおりますが、優しいお顔立ちであります。が、「もしその教えを障碍する煩悩など魔があれば利剣をもってその命を絶ち、衆生の修行向上を助ける」(『図説佛教語大辞典』)仏の使者だそうです。

2011年12月31日土曜日

熊野寺の石仏

長野県宮田村、中央高速を東京方面に向かって走っていると道の西下に小さな堂と、何やら由来を書いてあるような看板が見えます。狭い一般道を、記憶を頼りに走っていると、何やらそれと思しき所に着きました。「熊野寺」あるいは「熊野権現」ともいうらしいのですが、鍵のかけられている堂の中を覗くと、上段に厨子が二つ、下段に五輪塔が一基見えました。参道には石仏が数体、道をはさんで左側に、墓標とも取れる石碑が数基あります。




堂の内部。ガラス越しに内蔵のストロボを焚きました。手前が五輪塔。









如意輪観音。頭上に十四番と刻まれています。西国三十三所観音霊場の十四番、三井寺園城寺は如意輪観音様だそうです。享和3年(1803)のものだそうです。












何とも不思議な石像です。右手に持っているのは木の枝のような気もします。お顔も丸顔で、不遜ではありますがユーモラスさを醸しています。「蚕神」の様でもあるのですが・・・・・。

2011年8月31日水曜日

伊那の蚕神様-2

伊那市美篶南割
  伊那の中心街から国道361号線を高遠の向かっていくと、南割という集落があります。その集落の中ほど、国道沿いに15基ほどの石造物群があります。最も古いのは元文二年二月銘のある「百所観音」順拝の碑。石佛石神像は三体。



  蚕神像 右手に桑の枝を持っているが、その他は不明。













不明の菩薩像。像の二か所くらいで損壊し補修の跡があり、そのため文字がいっそう判読しづらくなっているが、左手の横に「千部」という文字が読み取れる。











観音像。銘に宝暦十三年十二月とあり、「奉供養西国巡礼」「願主十一人」とある。

2011年8月27日土曜日

線彫白衣観音像(伊那市高遠小原)

  「エンヤ~ 会津磐梯山は宝の山よ」で始まる民謡[会津磐梯山]。囃子ことば
「おはら庄助さん なんで身上潰した
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上潰した
ハァ もっともだ もっともだ」
伊那市高遠町小原。南北朝のころは信濃宮宗良親王所領であったといわれているところであるが、その小原のはずれ三軒屋という所に「丸山城(通称小原城」の城跡がある。城跡といっても平の所はすでに開鑿されて田あるいは畑となり判然としないが、それでも周囲を見ると塁の跡が残っている。
この丸山城、明徳の頃小原太輔という豪族が初めて城を築いたという。その後、小原丹後守正継は武田勝頼の家臣として従い、勝頼夫人の介錯をした後、天目山において勝頼に殉死した。その四代の孫庄右衛門光俊は高遠城主保科氏に仕えていたが、城主保科正之の最上移封に従い、一族ことごとくを従え高遠を去って行った。さらに、保科氏の会津若松への転封により、小原氏一族もこれに従い、会津に移っていったという。はやし言葉に出てくる「小原庄助さん」は、その後裔である、と、この辺りの人々には信じられている。
その、丸山城(小原城)跡の土塁近くに、明治12年3月に建てられた「小原丹後守墓」があり、その石碑に白衣観音の線彫りがある。近くに説明板があり、小原丹後の守は庄助さんの6代の祖であるという。

2011年6月6日月曜日

善光寺式阿弥陀三尊石仏

信濃といえば善光寺。その善光寺に伝えられているのが、善光寺式阿弥陀三尊の立像です。
過日、猫神の石像を見に出かけた所、石造群の始めの位置に小さなお堂があり、その中に件の三尊像が安置されていました。刊行物によると、明治22年(1891)2月18日建立。大きさは70×45×25cmとあります。保存状態が良く、光背に施された装飾も良く残っています。

2011年4月30日土曜日

長岡新田の道祖神(長野県上伊那郡箕輪町)

   少々古い資料で、長野県上伊那郡箕輪町に所在する双体道祖神を巡っていたが、どうしてもわからない場所があった。字が「長岡新田」という所です。何日か周辺を歩いてみて、ぼつぼつ小学校の登下校を監視する人たちに怪しまれそうになってきたので、思い出して職場の人に聞いたところ、「ダムの底よ!」という返事。そういえばそうだったよな・・・・・
    ということで、改めてダムの畔をドライブ。中ほどまで進むと「新田神社」という社。信仰のよりどころをダムの底にしないために、新たに作った神殿。その下段に小さな広場(道祖神場)を設けて安置した石塔・石碑たち。
    右手2番目庚申碑の隣が「双体道祖神」。そして、左手が「地蔵菩薩」。









ほかの像の3体は、「馬頭観音」でした。














2011年4月10日日曜日

土に埋まる謎の男女像

伊那市高遠町藤沢の北原という集落の法華堂の庭に、写真のように土に埋まるように置かれた、男女の像があります。向かって左が男で、やや俯き加減の方が女でしょうか。少し距離を置いて座っています。大きさは高さ30cm強。若干傾斜のあるところにおかれているので、雨などにより土の移動に伴い距離が離れたのかもしれません。
女性と思われる向かって右の像は、体つきも全体にふくよかで、お顔も丸顔に作られています。置かれているところが「法華堂」なので、もしかしたら神様なのかもしれません。

2011年3月12日土曜日

馬頭観音(伊那市川北町)

伊那市山寺地籍に常円寺という禅寺があり、その寺下坂下の辻から羽広山仲仙寺へと続く「羽広道」という道がある。その道には一丁ごとに「丁石」という道しるべがあるのだが、観音様のお姿が刻まれています。その写真を撮るべく日差しもあったので出かけました。
丁石(丁観音)については後程まとめてHPに載せようと思っていますが、その10丁目に馬頭観音が置かれていました。高さ約40cm弱。明治25年(1892)12月とあります。
観音様のお顔も馬の顔も風化してわかりませんが、どことなく幼さが残るような風貌でした。

2011年2月28日月曜日

長岡十澤のお地蔵さん

20数年以前、営業であちこち団地を歩いているとき、ある団地の片隅に、ちょっと恐ろしい話のあるお地蔵さんがあった、なァ・・・・・という不確かな記憶を頼りに車を走らせていると、目についた団地がありました。駐車場があったので車を止め周りを見ると、石段の上に小さな建物が。もしかしたら・・・・・






可愛いお顔をしたお地蔵様でした。
求めていたお地蔵様ではありませんが、暖かな陽を浴びて心地よさそうでしたので、写しておきました。











いわれを書いた看板がありましたので、ご覧ください。
長野県上伊那郡箕輪町長岡という所にあります。

2011年1月31日月曜日

ほぼフル装備「青面金剛像」

長野県上伊那郡辰野町沢底という集落の路傍に安置されている青面金剛の石像です。上部が少し欠けていますが顔立ちはきれいに残っています。
台座には、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿。二鶏ははっきりしませんが、六臂の持ち物もはっきりと残っています。左下手のショケラ(女人像)、頭上の日・月など比較的きれいに残されています。
美しい青面金剛像でした。

2011年1月3日月曜日

不動明王(高遠町 建福寺)

新年も三日目。恒例により、旦那寺に新年の挨拶に出かけました。このお寺は江戸時代に活躍した、高遠石工が作った石仏が多いことでも知られています。山門前の石段を上る中ほど右手、大きな岩の上に不動明王が安置されています。嘉永2年(1849)春建写、足元に碑文があります。
お不動様に守られて、今年が良い年でありますように・・・・・

2010年11月22日月曜日

馬頭観音(伊那市長谷溝口原)

旧長谷村。国道152号線溝口集落に入る橋のすぐ下に道祖神場があり、双体道祖神の向かって右側にたっていました。はじめ、お地蔵さんかなと思ってよくよく見たところ、頂上にあったと思はれる化佛の欠けた跡があったので、多分馬頭観音だと思います。
風化と苔で細かいところはよくわかりませんが、お顔は丸顔で体つきもふくよかです。
右肩に「二月吉日」の文字は読み取れますが、いつのものかは分かりません。

2010年10月1日金曜日

青面金剛像

 少し秋晴れなのと、気温も穏やかなのに誘われて、車で出かけました。メインは双対道祖神を撮ること。
 高遠の藤沢地区。御堂垣外という小字の諏訪社という社の入り口に坐す「青面金剛像」。
 一面四臂。右上手には宝珠、下手には蛇、左上手に鉾、左下手に羂索を持つ姿。二鶏三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)。上部に雲上の日月、光背には火炎らしきものも見える。
 延宝8年(1680)正月の銘。風雨に耐え、お顔立ちもかなりはっきりとした像である。

2010年9月3日金曜日

青曽大権現

 カメラ片手にウロウロしていると、たまに不明な石造物に行き当たることがある。
 以前、「雨虫大明神」なる自然石半肉彫りの石造物を紹介したが、昨日、またまた写真の石碑に遭遇した。
 正面中央に「青曽大権現」と彫られている。明治7年の建立。願主は卯年女とある。
 青曽大権現 とは如何。
 場所は長野県伊那市蟹沢という集落の路傍。
 不思議な名号である。

2010年7月6日火曜日

馬頭観音像


 伊那市高遠町長藤弥勒  国道152号線を杖突峠から下ってきて高遠の町に入る手前、今年2010年に開通した新道と旧道の分岐するところに二十数基の石碑と石仏が安置されています。ガードレールのかげになり、注意しないと通り過ぎてしまいますが・・・・・
 石造の多くは馬頭観音像ですが、聖観音や地蔵様などがあります。多くは江戸時代のものですが、大正時代のものもあります。


 こちらは、嘉永5年(1852)の馬頭観音像。











 明和9年(1772)の馬頭観音像。

2010年6月24日木曜日

奪衣婆

人が死ぬと三途川の川岸にたどり着きます。この川を渡るのには六文銭が必要なのですが、もしこれを持たずに来ると、亡者の衣服が剥ぎ取られてしまいますしまいます。この冷酷な仕事をするのが「奪衣婆」です。一説では閻魔王の妹ともいわれています。
奪衣婆が衣服は樹上にいる懸衣翁に渡され、懸衣翁の手により木の枝にかけられ、その重さにより死者の罪の軽重をはかるといわれています。
写真は、伊那市高遠町的場にある十王像のうちの「奪衣婆」です。苔に覆われているので彫の部分も定かではありませんが、おどろおどろしい表情ではありませんか。

2010年6月23日水曜日

十王像(伊那市高遠町的場)

 十王像
 十王は冥界の十王のことをいい、秦広王・初江王・宋帝王・伍官王・閻魔王・変成王・泰山府君・平等王・都市王・五道転輪王のそれぞれの王が、人の死後の忌日年忌に順次裁きを行うとされています。
 この辺りでは、この十王に地蔵菩薩と倶生神(あるいは人頭杖)を加え、石にあるいは木に刻んで十王堂に、また村の境の路傍に安置し信仰してきました。
 写真は、伊那市高遠町的場の旧公民館裏に集合された石造物群の中にある十王像です。盗難から防ぐために、鉄のゲージの中に収められています。それぞれの高さは約20㎝。湿気の多いところですので、像の表面は苔むしています。