ある日、Uチューブを何気なく開いていたら、件の本の朗読が目に留まりました。車の中で聞こうと思い、聞きながらダウンロードを始めましたが、やはり、途中から涙が溢れて止まりません。車の中では危険だ、と思い、最後までダウンロードをしましたが、今のところ車の中では聞いてはおりません。
私は1948年に満州で生まれ、1953年に母親と二人で、日本に引き揚げてきました。
『ちいちゃんのかげおくり』。量的には短い絵本ではありますが、名作だと思います。
ある日、Uチューブを何気なく開いていたら、件の本の朗読が目に留まりました。車の中で聞こうと思い、聞きながらダウンロードを始めましたが、やはり、途中から涙が溢れて止まりません。車の中では危険だ、と思い、最後までダウンロードをしましたが、今のところ車の中では聞いてはおりません。
私は1948年に満州で生まれ、1953年に母親と二人で、日本に引き揚げてきました。
『ちいちゃんのかげおくり』。量的には短い絵本ではありますが、名作だと思います。
二階に上がり、展示場の真ん中に、御輿のようなものがありました。それこそ「なんだ?… これは?…」。轅(ながえ)の方を見ると説明書がありました。それを読んで納得。
子供の頃のお葬式を思い出しました。子供の頃、何人かの親族を見送りましたが、こんなに立派な龕ではなく、木造りの坐棺に縄で轅を括り付けたのを大人が持って(あるいは担いで)いって、土葬にしたというきおくしかありません。
所変われば、と言う事か、と、納得致しました。
今で言うと、宮型の霊柩車といったところかもしれません。ちなみに「龕」を『広辞苑』で引いてみると、①仏像を納める厨子(ずし)。「仏―」「―灯」 ②棺(ひつぎ)。 という風に載っていました。WEB版『新纂浄土宗大辞典』の解説には、
④棺台のこと。棺から転じて遺体をのせて運ぶ輿をも龕と称した。轅(舁棒)のついた台と、これにのせる棺を覆う鳳輦形の上屋からなっている。台の周囲には四門のついた小板の忌垣を施すこともある。
とありました。
それが左の写真です。少し離れた所に変った石が。下の写真がそれです。これに中台と笠・宝珠がそろえば完全なのですが・・・
下の石柱が本来、何の目的で刻まれ、この場所に置かれているのかが不明ですが、『箕輪町の石造文化財』には何の記述もないのですが。
もう一つ、何度か訪れたお寺の跡ですが、高遠町の鉾持神社の西に相頓寺というお寺の跡があります。『伊那神社仏閣記』に「惣頓寺」とあるのがそれだと思われますが、昭和の早い頃に廃寺になったということです。その相頓寺の廃寺跡に芭蕉の句碑があるのですが、句碑を見たついでにうろうろしていると、「犬棒」ではないのですが、写真の双体道祖神に行き当たりました。裏面に「なかよし」と刻んでありました。
この産泰宮の裏手、民家へと続く道の入口の所、左の写真はグーグル・ストリートの写真ですが、中央あたりに見える大きな石、その表面に微かに二体の人物が見えます。
カメラに収め、家に帰って何度となく見ても、双体道祖神としか思えません。もしそうだとしたら、今まで気付かなくてごめんなさい……
高遠城址公園は、当然ここより標高差があるので(60mほど)、公園開きはしたものの花はまだまだこれからだと思いますが、そう遠からず、といったところでしょう。
堅牢地神また堅牢地祇・堅牢地大ともいう。大地の神をいう。地神。この神は大地を堅固にたもつから、こうよばれる。また、常に教えが流布するところにおもむいて、法座の下にあって敬い守るという。もと女神であるが、密教では男女の二神があって、胎蔵界曼荼羅外金剛部院に属している。
これは吉田貞吉著『福神研究』という書物に紹介されている『宗祇諸国物語』の一文ですが、普通大黒天というと、石像でも単体像が多く見られます。ところが、安曇野市穂高矢原という所には、上述の文のような「三面大黒天」の像があります。
矢原公民館の奥、清国庵という御堂の中、青面金剛像の向かって右隣に何ともにこやかな仏さまが刻まれています。頭上には「南無妙法蓮華経」の髭文字の題目。両足で宝珠の付いた米俵を踏み、左肩に大きな袋を掛け右手には打ち出の小づち、と、ここまではいつもの大黒様ですが、右肩に毘沙門天、左肩に弁才天、それぞれに二臂があり、毘沙門天は三叉鉾と杵とを持ち、弁才天は鑰(鍵)と宝珠とを持っています。明治九年丙子年十月足日の記銘があるそうです。
グーグルマップを頼りに、何とか到着。立派なトイレがあったので、先ずは落ち着いてから…